惻隠の心

 昨日触れましたので『孟子』の元ネタを確認。*1

 人皆人に忍びざるの心有りと謂ふ所以の者は、今人乍ち孺子の将に井に入らんとするを見れば、皆怵綃惻隠の心有り。交はりを孺子の父母に入るる所以に非ざるなり。誉まれを郷党朋友に要むる所以に非ざるなり。其の声を悪んで然するに非ざるなり。
 是れに由りて之れを観れば、惻隠の心無きは、人に非ざるなり。羞悪の心無きは、人に非ざるなり。辞譲の心無きは、人に非ざるなり。惻隠の心は仁の端なり。羞悪の心は義の端なり。辞譲の心は礼の端なり。是非の心は智の端なり。人の是の四端有るは、猶ほ其の四体有るがごときなり。
(公孫丑上)

 四端説と言われるものですね。人は生まれながらに仁・義・礼・智の端(本質)となる四つの心を持っているとする「性善説」です。

 人は皆「(他の)人の不幸を見過ごしにできない心」があるというわけは、今人が不意にまさに子供が井戸に落ちかけているのを見たならば、皆あっと驚きいたましく思う心がある。(いたましく思って助けるのは)子供の父母とお近づきになろうとする打算ではない。同郷の人や友人に誉めてもらおうとする欲からでもない。(助けなかったという)不名誉な評判が立つのがいやだからそうするのでもない。
 以上のことによってこれを観てみると、「(他の)人の不幸を見過ごしにできない心」を持たない者は人間ではない。「不義不善を恥ずかしく思う心」を持たない者は人間ではない。「他の人に譲ろうとする心」を持たない者は人間ではない。「物事の善悪を判断する心」を持たない者は人間ではない。惻隠の心は「仁」の本質である。羞悪の心は「義」の本質である。辞譲の心は「礼」の本質である。是非の心は「智」の本質である。人にこの四つの本質が具わっているのは、ちょうど(生まれながらに)両手両足があるのと同様である。

 ここで「惻隠の心=いたましく思う心=(他の)人の不幸を見過ごしにできない心」があるとされる例証に、「井戸に落ちかけようとする子供を見たら思わず助けようとするだろう」というケースが出されていて、これは確かに説得力があると思います。
 惻隠の心があるのなら募金箱へGO!というのはちょっと違うでしょう。入れる時もあれば入れない時もある。それを自分で恥じるなら毎回入れればいいんです。これは「目の前の人の不幸を見過ごせない」ということの例ですし、「(すべての)人の不幸を見過ごせない」と解釈した場合、人類の大半が人間じゃないことになってしまうかもしれませんね*2
(「人間じゃねぇ」なら叩っ斬られるでしょうか? 『破れ傘刀舟vs動物愛護団体 真昼の血闘』とか…)

*1:さすがに原本は持っておりませんので、丸山・菊川『原典による哲学入門』現代文化社、1974、に載っているものを引いています。でも書き写してから思ったのですが、これはネットを探した方が早かったでしょうorz。

*2:基本的に、ひどく可哀想な話を聞けばそこで惻隠の心が出てくるんだと思います。その話を聞くことで「対面」すれば。だからその話を持ってくる人には、きちんとしたプレゼン能力があればいいんです。人を批難する話術じゃなくて…