私の「責任」観

 hishimaruさんからトラックバックをいただきました。「責任」について先日来コメントやTBをいただいています。視点が違っていてまたちょっと活性化*1。ありがとうございます。
 「見殺しにすること」の「罪の軽さ」を軽視しないほうがいい。

…まず「責任」の定義を掲載しておきます。

①自分がしたことと結果との間に因果関係がある
②自分の意思でしたことである
③結果について責めを負うべきである

「募金をしないことによって、我々はアフガニスタンの人を見殺しにしたことになる」という論を、これに沿って検証します。

①自分がしたことと結果との間に因果関係がある → ないとはいえない
②自分の意志でしたことである → そうでないとはいえない
③結果について責めを負うべきである → 負うべきではないとはいえない

上記3点の要件が満たされていますので、我々に責任はあります。
どんなうすい責任であっても、確実に責任はあります。

 で、私の言った「詐術」(というのがあるのならそれ)は

詐術は「責任の有無」にはありません。
詐術は「責任の重さ」を伏せている点にあります。


水商売のボッタクリと一緒です。
請求があることが不当なのではなく、請求する金額が不当なのです。

 という結論に至られ、

これはuumin3さんの責任でもあります。

「責任が軽すぎて、ないのに等しい」という形而下の評価を「責任がない」という言葉で表現してしまったために、「責任がある」という形而上の考え方と対立してしまいました。
責任のあるなしにこだわったために、自ら詐術にはまりにいったようなものです。
ここは言葉にこだわらず、「責任があるとしたら、どの程度か」と視点を変えればよかった。

 という具合に御批判もいただきました。ここらへんについて書かせていただきます。


 この「責任」ということにつきましては、日記を始めた当初から繰り返し考えてきたテーマです。私が考えていた「責任」はこういう形のものでした。(たとえば05/05/09の日記など)

 話を法的責任から始めてみましょう。近代法罪刑法定主義と事後法の禁止を重要な理念として持ちます。これは、恣意的な法の適用(責任追及)を排除するために重要なものです。これらの前提のもとに、責任とは批難可能性として考えられるものです。あくまでも「責任」はルール違反という形で(予告され、それを破らない行為の選択ができた者に)のみ発生します。

 もちろんルールが完璧なものでない以上、ケースによっては不備もあるでしょう。ですが私は現時点でこれ以外のやり方で明確な「責任」を問うのは説得的ではないと考えます。神ならぬ身の人間が他者を裁くというのは非常に重い行為なのですから、説得的ではない理由で他者を責めるのに躊躇した方がよいとも思っています。

 道義的責任は、どんな場合でも誰にとっても等しく自明というものではありません。その意味で普遍的・論理的ではない面を持つと言えるでしょう。もちろんそれを自分で選択した人にとっては明らかであり論理も持ち得ます。ですが、他者にそれを普遍妥当性を持つものとして強要することはできません。

 それでもなお道義的責任という考えが存在するのは、そしてそれを自分にも他者にも問いたくなることがあるのは、道義的責任が自らの意思・選択としてあり得て、自分でもそれを自らに課すことがあるからではないでしょうか。

 基本的には説得的に問える責任はまず法的責任の範囲に置き、そしてそれ以上の道義的責任は各自の選択に任すべきものという感じですね。*2
 この線で考えますと、「募金をしないことによって、我々はアフガニスタンの人を見殺しにしたことになる」という論は「責任を他者に問う筋合いのものではない」のです。自分でそこに責任を見いだすならばそれは一つの立派な決意であり、第三者としては止めることはしません。ただ「お前は見殺しにした」という道義的責任の強要はできないでしょうと…
 これは自分ではsivadさんの「因果関係は責任関係ではない」

 「責任」というのは自然における因果を示す概念ではなく、人間・社会がそれらを元に「設定」する人工的な関係なのです。人や社会が生きていくための「ルール」であって、自然法則ではない。

 という考え方にも近いように思っております。
 ですからhishimaruさんのお考えの「ないとはいえない因果関係」、「負うべきではないとはいえない結果への責め」というものは、あくまで本人の意志で引き受ける道義的責任を生むものであり得るのですが、それを問責可能な責任とは捉えないということですね。(自分の意志…のところは、むしろ積極的に募金しないという行為に意志は働いていると思いますよ)


 いかがでしょうか? 結構「責任」観に差異がありますので、自ずと結論も違ってきますよね。

そしてそれに伴って我々に課せられる義務は


「自分の不作為で助けられなかった人が、世の中には存在するであろうことを、一生に一度くらいは自覚すること」

 あたりの結論にはなかなか面白いと(いえ、むしろ少なすぎ?)と同意させてもいただきます。でもですね、

「責任がない」でもなく「負うべき義務の量をはっきりさせないまま、責任を負う」でもなく、「負うべき義務の程度を決めた上で責任を負う」のが、最もまっとうな判断ではないかと、私は思っています。

 これは、それぞれの思う道義的責任の在り方に関わってくるんじゃないかと私は感じています。


 いろいろ言っていただいて感謝です。(私の立ち位置表明もさせていただきましたし…)よろしければこれについての感想・ご意見なども(お時間ができたらで結構ですので)そのうちお願いいたします。

*1:結構疲れてました 笑

*2:付け加えますと、「内輪」の論理に規制されて責任が問われるという場合は考えております。その個人が属する集団、大は国、小は勤め先や家族、あるいは友人集団というところで「責任のローカルルール」があったり、それに縛られたりすることは有り得るということです。ただしそれを「内輪」と看做さないことによって、その責任を回避することも可能なはずとも