大学の工場モデル・サービス業モデルとFD

 折に触れ考えてきた「大学のモデル」について、FD(Faculty Development)の義務化と絡めて書いてみます。

 金沢大学大学教育開発・支援センター「週刊センターニュース No.148」(pdf)(2007年3月5日)

○●○新聞報道にみる「ファカルティ・ディベロップメント(FD)の義務化」○●○

 FDとは、大学教育の改善に向けた「教員団」による組織的取組を指すもの、と一般に解されています。

 今次のFDに関わる高等教育改革の動きは、学士課程(学部教育課程)でこれまで努力義務であったものを、法的義務にまで高めようとするもので、具体的には、大学設置基準を改正し、FDを法的義務とすることを内容とする規定を新設しようとするものです。
 こうした点について、平成18年10月21日付毎日新聞(夕刊)は、「文部科学省は大学・短大教員の講義レベルアップのため、全大学に教員への研修を義務づける方針を固めた。来年度に大学設置基準と短期大学設置基準を改正し、早ければ08年4月にも義務化する」と報道しています。
 FD義務化の理由・背景として、上記毎日新聞では、「各大学で現在行われているFDの内容は講演会の開催や研修会、授業内容の検討会など座学中心で、実効性や効果を疑問視する声がある」ことや「大学全入時代を控え、経済界には『企業で戦力として使える人材となるように教育してほしい』と、大学教育の充実を求める声も強い」ことなどを挙げています。

 義務化の対象となるFDの中身については、上記毎日新聞は、「具体的な研修内容は中教審で審議されるが、各大学ごとに建学の精神や求められる教員像が異なっており、『統一のガイドライン作成は慎重にすべきだ』という声もある」と報道しています。
(後略)

 FDが必要だ、というように漠然と言われても、おそらく現状では各大学のFDへの取組というものはうまくいっていないものと思われます。第一にFD概念の錯綜。第二に教員へのインセンティブの無さ。これらが問題点であろうと考えられます。


 各大学の「建学の精神」というものにも関わってくるのでしょうが、その大学が何を目指しどこを向いているかということでFDへの取組なるものはがらりと変わってきます。
 上の引用では『企業で戦力として使える人材となるように教育してほしい』という経済界の声が紹介されていますが、この「大学卒後の人材を社会に出すもの」としての大学の在り方は工場モデルとして考えられます。それは「良品の生産と出荷」を目的とし、「顧客」であるところの企業なり社会なりに恥ずかしくない人材を届けるのを第一義とします。
 ところがもう一つ最近目立って来ているのはサービス業モデルとしての大学です。そこにおいては学生および学生の両親など(スポンサー)が「顧客」であり、学費という対価に対して学問の教授というサービスが提供されていることに焦点があてられています。こちら側では学生の満足こそが一義的なものなのです。
 FDが「より良い教育」を目指すものだとして、非常に単純化して言えば、前者においては「厳しい教育・基準に満たないものは卒業させない」のが理想に近い形となりますし、後者においては「優しい教育・皆が卒業できるようにする」のが求められる形でしょう。
 大学がどちらをどれだけ目指すのか、どこを向いているかで「良い教育」の意味はかなり違ってきます。それが曖昧なままFDをやれと言われてもうまくいかないのはむしろ当然でしょう。この意味から、へたに『統一のガイドライン』が明確化されてしまっても、それが現場にさらなる混乱を生むことすら予想されるのです。


 また現状では「よい教育」へのモチベーションは教員の良心に任されている感があります。研究と教育の両立が求められるとはいっても、どれだけオーソリティーのある学会誌に何本論文が投稿されたかで業績が量られ、あるいはそれを元に研究費の多寡が決まり、授業改善に関する時間・労力・経費が大して顧慮されないのであれば、システムとして教育を重視しているとはいい難く、教員の多くは研究を重視せざるを得ません。
 それゆえ上記「センターニュース」に引かれているように、わが国の大学のFDの現状が「実際には研修会への教員の出席率が極端に低く、授業の改善が必要な教員が参加しないなど大学全体の教育水準の向上にはつながっていないケースも多い」ということになっているのです。
 教育で為したもの(成果)に対する何がしかのインセンティブがなければ、それはシステムとして十全だとは言えないでしょう。
 またその評価の手段も「学生のアンケート」だけで済ませられるでしょうか? たとえば厳しく指導して熱意を込めたとして、それが「うざい」「つらいのはやだ」という評価を受け「いやな(悪い)教師」のレッテルを貼られてしまうことになるならば、妙に学生に迎合し、簡単に単位を出すという教員ばかりになってしまう危惧すらあると思います。


 私は結構長いこと予備校で教えたことがありますが、そこでは明瞭に「良い教育」とは「大学合格者を増やすこと」と割り切られていました(もちろん個々人の先生の思いは様々なのですが)。そしてその科目ごとの結果としての点数・偏差値が、ある程度講師の客観的評価につながりますし、また同時に生徒が授業に興味を持つか・出席するか・人気はあるか、など生徒側の評価というものも講師の翌年の収入や雇用(コマ数)の確保に密接につながりました。さらに人気がでれば夏期講習などでエクストラなコマも来ますし、テキストを書いたり参考書を書いてさらに収入が増えるなどのインセンティブも十分ありました。(人気が無くなると職を失うことすら…)


 こうした予備校的な明瞭さをそのまま大学に適用せよとは申しません。しかし各大学が「目的と意志」を明確にし、教員の教育へのインセンティブをシステムにうまく取り込むことによって、FDという取組ははじめて成功するものではないかなと思っています。


(※ですから考察のきっかけとして、自分のところの大学はどういうモデルで考えられるかなと、(大学に御所属の方には)そうお考えいただければとも思うのです。)