倫理的判断についての過去の言及

 以前にもこのようなことを書いておりました。

 倫理とは簡単に言えば「何が善であるか」についてのある集団での共有される認識であって、しかもそれは純粋な形式としては導けないというのが今のところの倫理学の共通する考え方です。善とか悪とかの問題について、幾何学の公理のような体系を厳密な証明によって導きたいとする方々(「厳密主義」…倫理的な命題もまた厳密に証明できるとする立場。有名どころでスピノザ、カント、ベンサム…可能性を言っただけならデカルト、ロックも)がいまして、そこらへんについてはその後のみなさんが盛んにつついて結局うまく行きそうにもないという結論になっています。ムーアが『倫理学原理』(三和書房で訳書あり)で、善は定義できないとしたのも相当諸方に影響を与えたようです。

 善とは何か(What is good?)と訊かれたら、私の答えは善は善だ、それでおしまいだ、というものである。善は、どのように定義されるのかと訊かれたならば、私の答えは、善は定義できない、これが善についてわたしが言うべきすべてなのである。

 ムーアが考えたのは、善などの単純観念は要素に還元するという形での定義は不可能というもので、これはこれで反論の余地はなく正しいでしょう。しかしそれでもなお善いものは考えられるというのはどういうことなのかという疑問は残ります。定番ではここから直覚主義とか情緒主義の話になるのですが、そこらはおいといて(笑)集団的な(言い換えれば相対的な)善という基準はあり、それがその集団を可能にしているという「卵が先かにわとりが先か」という構成がここにあるんじゃないかと私は思っています。


 きわめて簡単にいうと、私はロジカルで普遍的な倫理判断はあると思っていません。ただ個別集団的な倫理は存在して、それは場合によっては変容したり、部分的に消えたり、他の集団に採用されるなどのことはあろうと思っています。完全に相対的で閉じたものとも考えていないわけです。
(後略)

 つまり実際に倫理的判断はある。しかしそれは集団(内部)でのみ有効な、ある種相対的なものとして考えるしかない。そしてそれがなぜ有効なのかは「内部の皆が有効としているから」としか言えない…。そういう考えが今回のケースでも自分の根っこの方にありました。