歩行者の赤信号無視

 どちらかのブログで、お書きになられていたのは障碍を持ったお子さんのお父さんだったのですが、自分の子が車の来ない横断歩道で赤信号で待っているような子にはしたくない…というようなことを書かれていたのを拝見してびっくりしたことがありました。最初は本当にどういう意味かわかりかねました。
 考えを巡らすと、ルールに縛られるだけでなく自主的に判断して行動できる子になって欲しいという意味かと推察できたのですが、譬えがちょっとどうかなと個人的には感じました。
 赤信号のサインがあったときに停まるか停まらないか、これは自分の判断を越えたルールに関わることでもあります。無条件にルール絶対厳守を言いたいのではないですが、たとえばこれが自動車だったら「安全確認できるのだから赤信号でも進む」という意見にはためらいを感じる人のほうが多いと思います。
 理屈としては同じです。ただ自動車が他に及ぼせる力、事故になったときに与える被害が大きく、人が与えるそれは比較的小さいと量れるので「高を括る」ことが多いということでしかありません。実際のところ法規としては歩行者の信号無視も、3か月以下の懲役又は5万円以下の罰金となっています(自転車も同じ)。
 自転車にしても歩行者にしても反則金制度がありませんのでもし検挙すればいきなり大事になりますし、そういうところで警察はたいていの場合警告・指導に留めていると伺ったこともあります。その違反が無罪であるということではないのです。


 確かに危なくないように見えるところでの歩行者の信号無視に目くじら立てても…とは思います。しかし親がそれを子どもに勧めるのはどうでしょうか。車の運転をするようになってからは、実は私はかなり歩行者の赤信号を守るようになりました。(高校までは結構いい加減だったかもしれません)


 危険か安全かを判断して自主的に動けるということ自体は悪くないことだと思いますし、ルールにがんじがらめにされるのも窮屈でしょう。ですが、きちんと赤信号を守るということも、決して良くないことでも抑圧されたことでもないと私には思えます。車が来ない信号でもきちんと赤信号を守るのがドイツ人で、渡ってしまうのがイタリア人とかいうジョークも聞いたことはあります。その時はこれが杓子定規に物事を考えるドイツ風の流儀を揶揄するものにも思えました。でも規則に対するルーズさは決して誇れるものではなく、受け取り方によってはこれはイタリア風の高を括る態度に対する揶揄ともとれるんですね。(本当に彼の地の人々がそうであるかは別にして)


 高を括るのは時に無駄なリスクを生みます。確かに人が信号無視して誰かにぶつかっても、大きな怪我をさせることはないのかもしれません。でももし認知が遅れただけで危険が本当にやってきてしまった場合、それこそ責任が歩行者側にも当然発生しますし補償の額が大きく左右されるかもしれません。あるいはその危険を避けるために車が操作を誤って事故になってしまった場合、その事故に対する責任を本当に歩行者は考えているのでしょうか。少なくとも何らかの障碍を抱える子が、そういう無駄なリスクをとることには賛成しかねるのです。


 某柏駅の監視カメラについての議論で、「監視されている(かもしれない)という意識を見られる側が内面化すること」が問題だとおっしゃる方がいました。ルールの内面化というのは、監視カメラのあるなしに拘わらずこうした赤信号の時の判断にも現れてくるものです。そして、そのルールは私たちを縛るものであるのと同時に私たちを守るものでもあるということは忘れてはいけないと思います。ルールがルールだからという理由だけで忌避されるというのはあまりに幼い感覚です。
 縛られすぎの窮屈さも、野放図な認識で迷惑をかけたりかけられたりすることも、どちらもあわせて軽重を判断していくしかないのでしょうが、私は監視カメラにメリットの方を(現時点では)大きく感じています。