非モテ論議と格差社会論議は意外に似ている

 しばらくぶりに非モテの話がちょっと目立ってきたように感じます。G★RDIASの記事が再燃の端緒にも思えますし、crowserpentさんが進めようとなさる話にも興味が湧きますが、ここはまず革非同の古澤克大さんの「非モテの階級的歴史認識」をちょっと真面目に考えたいと思います。
 古澤さんは敢えて左翼言論ぽく「フラレタリア」としての非モテを語られているのですが、私は以前から「非モテ」言説の背景に「格差社会」に対してもの申す問題意識と類似の形を見ていました。

 格差社会批判とは「生まれ」という自分ではどうしようもないものによって格差が生じ、不公平になることを許容する社会へ向けられたものです。生まれつき恵まれているものと恵まれなかったものとが生み出され、社会においてその格差が固定されて、持たざる者はどう努力しても恵まれた者には届かないという構造がここで批判されているのだと考えられます。 

 格差社会批判ではこの「持たざる者―恵まれた者」はあくまで金銭などの富や社会的アドバンテージを指すのですが、これを(主観的ではありますが)「モテない者―モテる者」と置き換えて考えても、その主張は妙に一致するように見えるのです。あえて両者を区別しないように、これを「持てない者―持てる者」という用語で合わせて語ってみましょう。

 同じだけ努力しても、持てない者と持てる者は得られるものに違いがあります。持てる者が何の努力もせずに到達する点に、持てない者が一生懸命努力しても至ることができないのは不正義と認識する人がこの批判の道をとります。人は生まれながらに平等であるべきという考えからすると、持てない者が不当に貶められたスタート地点から始めねばならないのは不公正以外の何者でもありません。 

 しかもこの格差について、商業主義に走った社会全体が「持てない者は持てる者になればいい」と皆に煽っているのが現状です。格差はどんどん再生産され、これでは持てない者に立つ瀬はありません。煽られて、かつそこに届かない状況が作られているとなれば苦悩は深まるばかり…。

 これに気付いた持てない者は声をあげ始めているのですが、この不正を批判すると持てる者の側からは「お前の努力が足りないからだ」とか「持てない者から持てる者になった例もある」などの反批判がなされます。もともと努力でどうにかなるという状況があるのならば「格差」などとは言わないでしょう。また宝くじにあたるような希少な例を以って格差は乗り越えられる(こともある)としても、問題自体が個人を超えた構造的なものと捉えてみればこれは的外れの批判です。 

 持てる者を生み出さずにはおかない社会、そしてそれを煽る環境と、持てない者が低くみられるということが問題なのであって、もちろんすべてを個人(の努力)に還元する発想はある意味問題ずらしに過ぎないのです。

 いかがでしょうか。「(金銭的な)格差社会」を語っているのか「非モテ(の格差社会)」を語っているのかとても曖昧に見えてはこないでしょうか。


 もちろん「真面目に」格差社会を批判する向きからは、不真面目だとか、格差は客観的なもの(金銭的に計量されるもの)で非モテと一緒にするのはおかしいとかいったご意見も考えられるところです。しかしそれでもなお問題意識のこの奇妙な一致には注目せずにはおれません。 私はネット言論としてはこの両者はとても相似の形を持つと思います。当人にとって最も関心のある分野が異なるだけで、主張の構造は近しいものではないかと…。
 非モテ論者の方々が「恋愛資本主義」という言葉を(恋愛中心主義よりも)よく使われるところとか、古澤さんのように階級闘争のパロディー的にそれを語るところとか、実はそういう言葉の背景には社会に対する異議申し立てとしての「資本主義批判と同じ形」を直観していらっしゃるのではないかとちょっと感じるのです。


 それでも「生き死に」が関わるのでなければ、モテるのモテないのと言っても大した問題ではない(モテなくても死なない)というような言い方にも一見理はありそうですが、持てない者が結果としてreproductionに関わることができない(もしくは非常に不利になる)のならば事は重大です。それは持てない者の未来を閉ざし、今を生きるモチベーションをも低下させてしまうことにもなりかねません。どれだけの人が持てない者と自認しているかはわかりませんが、決して社会が簡単に無視してよいとも思えないです。これを社会問題と受け取るならば当然そう考えられるはずでしょう。


 しかしながら、「持てるとか持てないとかいうことを気にするな」と、現状恵まれた側からおためごかしに押し付けるのは欺瞞的ではありますが、持てない者自身が「持てる>持てない」という価値基準を捨て去ることは心の安らぎを齎すもの、個人的な解決方法かもしれません。その意味でも「持てる者になれ」という煽りだけは止めて欲しいものです。またうかうかとその風潮に影響され、持てる者を過大評価してしまうのもやめたいところ。二つの意味において、持てる=幸せという単純な話では決してないのですから。


 もちろんそういう個人的な解決には限度もあります。なぜなら欲望とは他の欲望によって触発され作られるものだからです。社会の風潮に逆らった価値観で生きるのには大きな苦労があります。価値は共有されて始めてその意味を持つのですから、その点だけでも集団に逆らって生きるしかないとなればとても生きづらいのは理解できます。
 結局持てる持てないの差を解消することができないとすれば、せめて「持てる者」がすべてではないということを社会的価値―認識として広めるべきなのです。決してこれは一部の人のこと、他人事とできる問題ではないと私も考えています。
(※これは昨年4月28日に書いたものを再構成して書いた記事です)