『屍鬼』が(あまり)怖くなくなってくる理由

 人にとって正体の見えないものが一番怖いのではないかと思います。何かいる、でもわからない。あるいはそこにいる、だけど何を考えているかわからない。そういった他者性が長編の途中で無くなっているため、『屍鬼』は前半のホラー系の話(とも言えるもの)から別のものになり、その意味では怖くなくなるという構図があるのでしょう。


 後半での屍鬼たちは得体の知れない「他者」ではありません。自分たちなりそして一人一人なりの都合があり、意志があり不幸があります。その人が何を思っているか知る/考えてみることによって、それが「他者」でなくなってくる部分は確かにあるのです。特に「心話」、独白的な内面の描写があれば、その不透明さは一気に飛ばされて場合によっては感情移入さえできるようになります。小野さんははっきりした善悪の物語に書くつもりがなかったのでしょうから、こうしたことが傷だとは私は思いません。


 ただ、相手のことを知る/考えてみるということがすなわち「他者」を消してしまえることなのかというと、残念ながらそんなに単純なことでもないでしょう。むしろ私たちは他者の不安に耐え切れず、逆にその他者をすでに自分が所有していた一定の意味の枠組みに押し込めて、それで事足れりとしてしまっていることが多いのですし、それはまた相手の理解から遠ざかるという意味では「他者」を(良くない形で)残すことに他ならないのです。


 単純な話、それはたとえばこの小説を「ホラー」だと言ってみたり、「吸血鬼もの」だと言ってみたりするだけでこの作品を理解したと言えないのと同じです。むしろそういう安易な了解から「読まなくてもOK」とわかったつもりになられるなら、それは単に損失でしかありません。
 「他者」もまたこういう構図の下にあります。わかったつもりになって、安易に自分の知っている何者かと同じに違いないと決め付けるのは自分の限界の露呈でしかありません。最近のトラックバックで、こういう恥ずかしいことはできるだけ避けたいなあと自戒もさせられた私なのでした。(ただ、その私の読み自体がまた本当にそうなのかと逆遡及される奇妙な構図もあるのがこの手の問題でして、そこらへんのややこしい問題はいずれまた書いてみたいと思います)