「誰が一番得をしたか」だけしか見ないのは陰謀論のはじまり

 何か事件が起きて、何故それが起きたのか、誰がそれを起こしたのかなどがよく見えないとき、結果として誰が得をしたのかを手がかりに経緯を考えてみるというのはしばしば為されることです。家の冷蔵庫からプリンが無くなった…ぐらいのことならいいのですが、それがかなり大きなことに適用されますと往々にしてただの邪推>思い込みという具合に「歪んだ現実」を形成することになって、一利はあっても害の多いことになりかねないような気がします。
 ここらへんについては、ブログ化以前の内田樹氏の日記でかつて感心していた記事を思い出します。

 たしかに状況が激変しているときに「すべてを説明できる単純な原理」を求めたく思うのは人情の常である。


 フランス革命のあと、それまでの特権を奪われた貴族たちは、なぜこんなことが起こったのかどうしても理解できず、フランス革命そのものが「誰かの私利私欲のための陰謀」であると考えようとした。


 そのときに「フランス革命の元凶」として実に多くの個人、団体がご指名の栄にあずかった。フリーメーソンプロテスタント、イギリス政府、バヴァリアの啓明結社、聖堂騎士団ユダヤ人などなど。


 もっとも有名なのはエドゥアール・ドリュモンが『ユダヤ的フランス』で展開したロジックで、彼はその長大な書物の冒頭にこう書いた。


 「フランス革命で利益を得たのは誰か?それこそがフランス革命を準備したものである。すべてはユダヤ人の利益に帰した。ということはフランス革命を画策したのはユダヤ人だということである。」


 この愚劣なロジックをまともに受け取ったひとが当時のフランスには何十万人もおり、そのせいもあって、半世紀あと、彼のロジックはナチによる600万人のジェノサイドに結果したのである。


 この「陰謀史観」を私は知的退廃のもっとも悪質なかたちだと思う。けれどもあまりにも多くの歴史的ファクターが錯綜しているときに「簡単な説明」にすがりつき知的負荷を軽減したがるのは、あまり知的でない人にとっては仕方がないことかなというふうにも思う。


 とほほの日々 The days of pains and regrets: 2月23日

 これは史観における陰謀論が「誰が一番得をしたか」の推測だけから始まり、結果としてろくなことにならなかった実例ですが、大なり小なりこうした不具合は「邪推」にはつきものだと思います。(私も昨日の記事ではカ○チの陰謀(笑)をほのめかしてみましたが、その後も買い物には行っておりますし、ああいうのは黒いジョーク程度に留めておくべきかなと…)


 得てして「うがったものの見方ができる」と自負するぐらいの人が、したり顔でこういう「裏読み」をなさるのですが、それが頭のいいものに見えるのは稀です。一番得をした存在が黒幕という説は、その得になる存在の陰謀・工作が100%に近いほどうまくいくことを前提にしていますし、世の中は大抵そんなにうまくいくものではないと思うからです。冷蔵庫からプリンを取った犯人は誰だ、と考えるような限定的で容易な作業ではないんだと考えます、社会的な事件に関しては。目論見がどうあれ、風が吹いて儲かる桶屋は世の中にはそれなりにいるんだということも思い出していただきたいですね。


 それでもなさりたい人はご勝手に…とも思いますが、それは頭の悪い人に見られるかもしれないというリスクを十分意識された上で公開されるべきじゃないかなと。老婆心ながら。