「償えざる」の周辺

 償えざる過ち、若き芽生えを妨げるも、その根は大地を強く掴む…
『ロミオ×ジュリエット』第十話予告冒頭)

 アニメ版のこの『ロミオ×ジュリエット』には擬古調の表現がはしばしに使われていて雰囲気を出しているわけですが、時々余計な違和感をおぼえさせてしまうところもあるなあと思います。たとえば冒頭に引いたこの文ですが聞いた瞬間にすぐ「おや」とか「間違いだ」とか感じてしまうんですね。


 古典文法ならここは「償ざる過ち(ツグナザルアヤマチ)」とならなければいけないところです。なぜなら、打消しの(助動詞)「ず」は未然形に接続するものですから。でもここはもう少し話が込み入っていまして、「償えない〜」という可能態が口語文法にしか存在しないというあたりもあわせて問題となると考えられるでしょう。


 私は文法は道具でしかないと思っています。数限りない用例が先にあって、その背後の見えない体系を可視化しようとする試みが文法研究という感じです。私たちが従っているのはあくまでも「用例によって紡がれる見えない体系」であって「文法」ではありません。文法を習得しなくてもネイティブが自分の言語を話せるのはそれゆえ当然のことです。
 中高生が「古文」だの「英語」だので文法に縛られて、難しいと思ってしまったり嫌いになってしまったりするのは、ひとえに教え方がまずい所為ではないかとずっと考えてきました。(ただ逆の教える立場から見て、ひたすら用例に触れさせる時間が取れない以上、ある程度文法に頼るのは仕方がないことというのも理解しますが)


 上記の「償えざる」ですが、まず古典文法で言えば「つくのふ【償ふ】」は他動詞・ハ行・四段活用となります。そして「ざる」はここでは打消しの助動詞「ず」の連体形と考えられます。「ず」は活用語の未然形にしか付かないものですから、聞いた時点でおかしいと思わせてしまうのです。
(「見えざる手」とか「消えざる傷」などが正しいのは、「見ゆ」・「消ゆ」がともにヤ行の下二段の動詞で、未然形が「見え」「消え」になっているからです。「読めざる本」というのがおかしいのは聞いてわかることと思います)
 ただし、これを口語に置き換えた「つぐなえない」という形は口語文法では説明がつく形になっています。これは「つぐなう」(動詞・ワ行・五段活用)+「ない」ではなくて、下一段活用の可能動詞「つぐなえる」+「ない」(口語の否定の助動詞)と考えられる形です。(「つぐなう」+「ない」ならば、現在でもこれは「つぐなない」でなければいけません)

 可能動詞(かのうどうし)とは、現代日本語(共通語)において五段活用の動詞を下一段活用の動詞に変化させたもので、可能の意味を表現する。「書く」に対する「書ける」、「打つ」に対する「打てる」の類をいう。
Wikipedia「可能動詞」)

 こういう可能動詞が口語にはあって(淵源は鎌倉期ともされますが)、後付けで「文法」として抽出しなければならなくなるだけ用例が今はあると考えればいいんですね。*1


 時代の変遷、地域の限定性、そして残った用例の数などさまざまなものが考慮されて(結果として)文法にまとめられます。ですから、一つ一つの用例がただの文法はずれなのか意味のある変化(ブランチ)なのかといったところはあくまでも人為的な選択によるもので、それを「恣意的」と言えば(極論としては)言えてしまうのかもしれません。現在でも、日本語の文法に「助動詞」というものは必要なしという説を唱えられている方もいらっしゃいますし、これを絶対的な決め事と考えてしまうのはおかしな話なのではないかというところですね。
 「文法に適わないから間違い」という表現が正しいのではなくて、「おかしいと思う(人が多い)からそれは文法を外れていると結論づけられる」というような微妙なところがあると思います。


 ただし、文法の考え方に個人の恣意性を超えたところがあるのは確かで、それゆえこれは「役立つ道具」となり得るのです。それこそ一日に何時間か毎日古文に触れることができるのならば、「文法用語」は別としても、その古文の時代・地域に通用した「用例によって紡がれる見えない体系」は体得できるはずです。その時間や労力が割けない場合、取りあえず「文法」を先に考えてみれば、それが便利な道具となるという感じなのではないでしょうか。
 日々動いていく膨大な「用例」によって紡がれる言葉ですが、すでに日常使われるものではない文語はこれ以上変わるというものではないですから、特にその「響き」がおかしい(通常の用例ではない)場合にははっきりそれが感じられるものですので、「償えざる」がひっかかって私に違和感をおぼえさせたという次第。
 江戸期の擬古文ですら結構間違い(というより中古の文法にはずれた用法)があるという話ですのでむやみに責める気もありません(平安・鎌倉などの文法に外れたところが多いので受験問題としてあまり江戸の文学は採り上げられない…例外は本居宣長松平定信芭蕉ぐらい…という話も聞いたことがあります)。ですがこういうのは耳障りになるもので、気になると言えば気になるもの。さらに言えば脚本を書く人は、もっと古典に触れてから擬古などはやって欲しいという感じでしょうか。

しないべき

 かなり以前から時折見かける「しないべき」という表現も、「せぬべき」と全部古典文法にしてしまえば通用するはずのものなのですが、一番の難点は「ない」が江戸以降の近世の言葉として広まり「ない」+「べし」に関して用例がない(あるいは極端に少ない)ので不自然に聞えてしまうというところでしょう。

*1:この「可能(の打消し)」の意味も汲んで「償うことのできない過ち」を文語化すれば、「償ふ(こと)あたはざる過ち」とか「償ふべからざる過ち」とかが考えられるでしょうか。もっといい表現もあるかもしれませんが。