『神童』の音

 もうすでに映画の『神童』は各地で上映を終えてきてしまっているのですが、遅まきながらマンガの『神童』を読んで気づいたことなどを…


 クラシック音楽を題材にしたマンガという言い方は、ちょっとこの作品にはずれている感じがしました。もっと(いい意味で)土臭い「音マンガ」といいますか、プリミティブな音とそれを受け取る魂が主題のものだという印象です。とても面白く読めました。さそうあきらさんの作品は初めて読みますが、これがデビュー作と言われても信じるような荒削り?の絵柄で、筋の展開も決して洗練されているようには思えないのですが、何とも「熱い」作品に感じられて、綺麗に(おとなしく)まとまっていないのが却って魅力的な作品だと思いました。「のだめ」とはかなり違いますね。


 正直に申しますと、この連載開始の時のさそうさんの表現技術はかなり古いタイプのものだったと思えます。作品中ではピアノの神童であるところの主人公の「うた」が野球少女だったりするのですが、最初この「うた」の投げる球の表現がストロボ光のストップモーションで見られるような連続した球の描き方で、随分懐かしい描き方だなと感じました。これと同じように、初めの頃作者が「音楽」を表現する時は音符をコマに(おそらくスコアを見てそのまま)たくさん描き込むようにしておられて、逆に今ひとつ音楽がつたわり難い感じを受けるのです。


 音が見えるマンガということでは、一時ハロルド作石さんの『BECK』がそうであるという話題がありました。聴く側の人びとの描写、構成の「間」、敢えて静止画でミュートに見せる歌う側の表情などなど、良く見るとかなり工夫がしてあって凄いと思ったことがあります。そのテクニックに比べれば『神童』はむしろ古い表現だったのだと思います。


 ところが回を重ねるごとに表現が工夫され、洗練されてきて、最後の46話目のコンサートシーンでは飾り程度に小さい音符は飛ばしているものの、基本的に音符に頼らない音楽の描き方になっていまして、ちゃんと音が見える感じになってきているのです。いいモチーフにめぐり合って、ご自分も凄く変わられたのではないかと感じました。


 このぐらいの音符を飛ばす描き方は、ちょうど二ノ宮知子さんの『のだめカンタービレ』と同じような程度です。でもこの両作品から受ける音の印象はかなり違ったものです。
 『のだめ』は、マンガを読むと「曲」が聴こえてくる感じを受けます。二ノ宮さんが現役音大生からアドバイスを受けながら描いているだけあって楽曲の表現が緻密で、ちゃんとその音楽が聴こえてくる感じを受けたり、知らない曲ならば実際に聴いてみたいと思わせるような読者をくすぐる部分があるんですね(その分だけペダンティックかも)。
 作者のさそうさんもコミックスの巻末に各話のBGMリストをつけて、このクラシック曲がこの話で弾かれたもの…というようにリファレンスを置いているので、おそらく最初は「のだめ」的なものを(先行して)描こうとしていたのだと思います。ところが音符をたくさん並べるだけではそれが伝わらなかったのです。
 でも『神童』では、かなりはじめの頃から「音楽」ではなく「音」を聴かせることに成功しています。最初に「うた」が浪人生の「ワオ(和音)」と出会うシーンでも、水中の魚が発する音が確かに聞えるように思われますし、それを「魚の歌」と言って初めて演奏で表現する「うた」の天才は、読者に「魚の歌」を感じさせてくれます。巻末リストに挙げられるドビュッシーの「金色の魚」ではなく、もっと抽象的な「魚の歌」の音がそこに表されているのだと思いました。
 作品にしばしば出てくる「波形」のコマ。人物のバックを黒塗りにして、その耳を貫いて白抜きで「音」のイメージがオシロスコープの波形のように表現されるものですが、これがおそらく『神童』という作品での特別な「音」の象徴なのでしょう。それは一瞬耳を打つ単音、というより天啓のような音の感じです。そのほとんどが「うた」にしか現れませんし、彼女が聴覚を失う瞬間には、波形がフラットになることでそれが表現されていました。
 「うた」以外でこの「音」が聴けたのは「ワオ」だけです(3回)。一番最初のこの表現が彼に描かれているところからしても、彼もまた祝福された特別な人ということが暗に示されていたのだと思います。


 この作品は、平凡な大学生(初めは浪人)の男の子が「うた」という神童に出会って影響されたその交流を描くもの、と捉えられがちですが、実は恩寵を受けた選ばれし者が同じく選ばれし者に引き上げられ、また立場を逆にして引き上げてあげるといった構成になっているのではないでしょうか。そういう面では『のだめ』と本質は似ているのかもしれません。(実はその「波形」が頭を貫くというコマ表現が、ニュータイプのピカーっとくるあれと似ているような気がしてならなかったのでした)


 今さらながら映画化した方も劇場で見てみたい気もするのですが、そういえば、前田有一氏の映画評 『神童』60点 を4月に目にしていたのでした。うーん。DVDが出るのを待って借りたほうがいいかもしれません。
 それでもとても面白いマンガだったのは本当ですし、あの「うた」のマスコットの「ブタ」がどうにも欲しくなってしまっています(笑)