人の為だからではなく人が為すから「偽」

 確かに「偽(僞)」は会意文字*1で、「為(爲)」に「人」が増し加えられて作られたと考えられる文字ですが、それは「人の為」ということではなく「人が為す」こと(人為)だから「つくりごと・いつわり」という意味が表されるのです*2
 つまり他人の為だろうが自分の為だろうが「人が為す(する)」ことだから偽りということになっているのですね。


 人為が偽りならそうでないものは何かと問えば、そこには「無為」がくるでしょう。今では無為は「為すこと無し」でネガティブイメージでしか捉えられませんが、「自然のままで作為するところのない」ものは老荘思想的には求められるものでもあったということです。そのイメージが、仏教語の導入にあたってもポジティブな語に「無為」を宛てるということにつながったのだと思います。
 老子は人為を廃し自然であることが道に通ずるとします(無為自然)。そして、原因や条件(因縁)によって作り出されたものでない不生不滅の存在(asamskrta)というサンスクリットの言葉が「無為」と漢訳されていたのでした。


 もとより生活にあくせくせぬ自由人、老荘思想の実践者のように言われる人たちは魏末の「竹林の七賢」などのように称揚されることもあり、そういう見方からは「ニート」など何の問題があろうといった感じなのかもしれません。(ただし彼らがただの奇人ではなく賢人扱いされたのは「政治批判・為政者批判をしていた」という一点にかかってくるような感もあります)

*1:形声文字でもあるとされます

*2:『角川新字源』で確認