水辺の馬

 [学び・教え]矛盾の止揚の教育(福耳コラム)
 学生に考えさせる授業趣味のWebデザイン


 この二つの記事を読んで考えたことなど。
 fuku33さんが「矛盾の止揚の教育」で語られるような授業を漠然と御自分の理想の授業のパターンとされ、そういう理想形もあったらいいなと思われているのでしたらそのニュアンスはわかるような気もします。そういう授業ばかりできるわけでもないけれど、知識の伝達だけで終始するんだったら「大学」の授業じゃないんじゃないかと考えられているだろうことは伝わります。

…いまの学生、「決まった正解を教わるのが大学の講義」と勘違いしているからである。あーこどもっぽくっていや。そんなの、チャート式でも読んどいてくれ。


 僕なんぞは、考え方ではなくって、他人が勝手に決めた正解を学んで、なにが面白いのかなんて思いますがねえ。

 でも最後のあたりのこの書かれ方では当然徳保さんのようなツッコミが入るのは仕方がないところでしょうし、それもまた個人ブログの花と申しますか「ツッコマビリティー」たっぷりの個人の感想として面白かったです。
 徳保さんのツッコミの要は「自分で考えて自分で発見させるような授業なんてできるの」ということだと思います。学生はそんなものは見透かすだろうし、むしろ知識・考え方の習得と割り切って授業を受けるほうが現実的だよというところでしょうか。


 すべての授業でこういう理想が達成されるわけではないとしても、確かにfuku33さんの理想にはちょっと難しいところがあるように思えます。それは「自分の頭で考えるという自発的な行為を他の人が巧んでやらせる」という矛盾した部分でありますし、徳保さんが指摘されるように教師がそれを評価する(評価できる)のだったらそこに自発性・創発性などあるのかというようなところでしょう。
 ただ私は徳保さんの危惧も杞憂に思えるところもありまして、fuku33さんが設定した正反合というレールを外れて、Aという仮説に矛盾するBという仮説を目にした学生がCではなくDとかFとかいう仮説を持ち出してきた時、fuku33さんはそれも評価される(できる)んじゃないかなとは感じます。そしてその時、皮肉にもfuku33さんの意図を裏切る形でその理想が成就するのではないかと思うわけです。


 「大学生にもなったんだから自分で考えねば」というあたりのことを考えるたび、私は梅原猛氏のエピソード(といいますか、まことしやかな噂)を思い出します。結構知られたこととは思いますが、大学で(確か田中美知太郎先生に師事していて)文献学に終始する「哲学」に嫌気が差し、自分で考えなければ哲学ではないと大見得を切って、梅原氏は修士論文に一つも引用がない論文を出したというエピソードです。そしてそれを評価した先生が「これは論文じゃなくて小説だ」と言ったとか…。
 哲学は自分で考えるべき学問だというのも正しいでしょうし、学問ならばプロトコルがあって当然と考える見方もわかる気がします。この矛盾を梅原氏が結局「止揚」できたのかどうか、これは後世にならなければ判断が難しいところではないかと見ていますが…


 結局のところ自発性や独創性を「教える」なんていうのはとても難しいことで、普通に知識とか考え方とかを伝えながら、たまたま奇跡のようにそういう面がでてくればいいなあと願うのが、できることのほとんどだと思えばいいのではないでしょうか。

 水辺に馬を引いていくことはできても、その気のない馬に水を飲ませることはできない。

 という言葉が頭をよぎります。そして、fuku33さんがおっしゃるより学生は賢いもので、徳保さんが考えるよりは可能性を秘めているものではないかともちょっと感じたのでした。