断絶

 hobo_kingさんの「自分を許すのは一人では出来ない」を読んでかなり共感。たぶん私も似たことを考えていたことがあるからでしょう。
 「価値」にしても「意味」にしても、個人が個人の側からだけの働きかけで決定できるものではありません。それらは外部に由来しつつ(あるいは個の側での選択でもあるという形を取って)「共有」されるものです。しかし「自分だけの価値」「自分だけの意味」も突き詰めていけば、必ずどこかで自分の枠をはみ出ることに気付くはず。大枠での価値や意味が与えられて私たちは人間になっているのですから*1。この「自分」さえ独りだけで創造したものでない以上、自分を最初からスタンド・アローンなものと考えること自体が「逆立ちした見方」だということは明らかでしょう。
 ただ実際にはこの転倒は気付かれることが少なく、「自分」とか「自我」から始めていろいろなことが考えられたり語られたりしています。これが近代的自我の特徴だと私は考えます。そしてここに気付く者、気付いてしまう者は、その時点で何らかの意味で近代社会に不適応を起こしてしまっているのでしょう(かつての私を含めてそう思います)。
 問題はかなり複雑なはずです。まず「自分」があって、「自分の選択」があって、そういう個が集まって社会を作っているという考え方に私たちは慣らされています。これは誰かが企んでいるというようなものではなくまさにそういう考え方が近代を支えてきたのですが、この「自分」というのは相当に人間にとってストレスフルなものでもあります。誰かじゃなく「自分」が選んで、「自分の責任」において状況を引き受けること。これに常に対応していくのはかなり辛いもの。時にほんの些細なことから、疲れきってそれについて行くことができなくなったりもするでしょう。
 そしてそんなとき、ちょっと適応できなくなったときに私たちは近代とか近代的自我のほころびに気付くことがあるのだと思います。


 たとえば「非モテ」なんていうのもその類のことでしょう。適応不全を起こしていない側からすれば何をぐちぐち言っているのかと、誰かがお前に来てくれないのならばお前から手を差し伸べればいいだけではないかと、服を変えろ髪形を変えろ清潔にしろ、下手な鉄砲も数打ちゃあたるんだし…と言うわけです。ところがおそらく「非モテ」の人が自称するときの「モテ」の意味は、不特定多数の異性からちやほやされるとか求愛されるという「モテる」イメージとは違っているのです。「非モテ」の人が(よくある意味で)「モテたい」=多くの異性から求愛などされたいと思っているようには全く見えません*2。かつてkanjinaiさんの「モテ論」考を最初に読んだ時の違和感もそこにあったように思います(G★RDIAS - モテとはひとりの女を大切にすることである(のブックマーク))。


 それではこの「モテ」は何を意味しているのでしょう。私はそれを「他者から望まれる・欲求される」という一点を象徴的に表現していることだと考えます。それは大胆に「愛されること」を意味するというより、ささやかに「声を掛けられること」、できれば「望まれること」を求めている言葉だと感じるのです。
 ところがその「望まれるということ」自体が「自分」の向こうからやってくるものなのです。どれだけ「自分」が努力しても、「望まれる」ように他者を仕向けることなどできない…そういう絶望感がここにはあるのだと思います。ここで垣間見えるのは、「自分で何とかしろ」という建前でできている社会の中で「自分の外からの意味づけ」が得られない、自分だけではどうすることもできないということに気付いた不幸せであって、やはり近代社会の矛盾の一つに出会ってしまっている苦しみなのではないでしょうか。


 これは傍から見ていれば「乗り越え難い障壁」には見えません。それこそ「何とか工夫すれば何とかなるもんだよ」的な感想しか見えないものだと思います。でもこの部分に囚われてしまった人には大問題になっているのです。
 ちょっと以前に増田で「セックスって汚いものなの?」というエントリーがありました。それをキレイ−汚いという評価の軸で見れば、セックスなど汚いとしかいえないものかもしれません。でも普通はセックスという主題を考えるときにキレイか汚いかという判断基準は前面に出てくるものではないはずです。ここでそれが出てきてしまうこと自体が一つの問題なのでしょう。躓いてしまったものでなければ問題の所在が分かり難いという構造、これが「非モテ」のケースに関してもあると私には思えます。そこには断絶が現れるのです。


 問題だと思う者には大問題で、気に留めない者には問題でも何でもないというこういったテーマこそがやっかいなものです。でもそうしたものがあるということだけは気付いて欲しいですし、結構大きな意味として共有できる部分もあるんだということは考えていきたいと思っています。
(至らない内容ですが、このまま残しておくことに。意外に読んでいただいたようで感謝です。自分は年齢的にもモテが主題の生ではなくなってきていますが、なぜかこれに関してはずっと気になるものでした。夏の葬列をRSSでしばらく読んでみたり…。またいずれ何か書こうと思います)

*1:それらを共有しつつ、ささやかに私たちは価値や意味の支持者、場合によっては部分的な創造者にもなるのですが、これを語り始めると複雑すぎますのでとりあえずここでは触れません

*2:もし万が一ちやほやされれば、それで悩みも解決…といくかもしれないにせよ、です