本当に「悪」という人はいるのか?

 というあたりで、実はやることなすことすべて悪、心まで真っ黒という人間はいないのではないかということをかつて書きました。対象となる人、あるいはその時の心持などでそれは変わるもの。たとえば何人も殺したシリアル・キラーだってお母さんには優しいとか、自分の子供には愛着を持つとかいうことはもちろん考えられることだと思います。
 しかしその人が不特定の第三者に酷薄であるとか、(私を含む)多くの他人に対して粗暴であるとかいう時、私たちはその人物を「良くない人間」と判断してしまうでしょうし、卑劣な行為や残虐な犯罪に手を染めていれば「悪い人間」と断じてしまったりもするのでしょう。
 決してそこには「悪」という本質が先行しているのではありません。ある対象(たとえば自分)に対する行為などの「よろしからぬ」現象から、私たちが思わず「悪い」本質を感じ取ってしまっている*1ということなのだと考えます。
 これは性善説を語っているのではありません。
 もちろん多くの人に粗暴な態度を取れば、その人は良くない人と認識されてしまうでしょう。それは一時的には局面的利得になるかもしれませんが、通常の(もっと穏やかで友好的な)人間関係が築けないという点ではおそらく損をしているものと思います。無頼の自由は社会からの疎外を引き受けた上での悲しみとともにあるのではないでしょうか。
 そこらへんは仕方がないことと諦観しつつも、自分の側がやたら「本質」を想定してしまうのにはできればブレーキをかけた方がいいのでは?とちょっと思ったりもするのです。ただあまりこれを理屈通りにやれば、相対主義の泥沼があるとも感じてはおりますが…


 良い人だの悪い人だのが一義的に決まっているわけではない、というのはおそらく普段気付かないだけで、ちょっと話を聞けばそうかもと思えることでしょう。自分には天敵のような人も、他の人には普通に対応していてそちら側からはまともな人と思われている、なんていうのもよくある話です。 自分からすればその人は許せない行為をする人間で「悪」であるのに、賛同者が得られず空回りという具合の話はネットでもそこここに。 これはちょっと耐えられない話ですが、最初から敵(にあたる側)に「悪」という本質を見ないようにすれば少しはここらが緩和されるでしょう。
 また、善悪を適当に割り振った図は分かり易いもの(思考の節約?)ですから、案外適当なところで採用してしまうものなのですが、これをあまりやると意表を突かれたときに思わぬ判断ミスもでます。たとえば悪い悪いと思っていた人の小さな善行を見て「ほんとは良い人」などと誤認してしまったり、良い人だと思っていた人の些細な悪行を見て「実は悪い人」などと誤解してしまったり…。これらはどちらも判断ミスと言って差し支えないと思いますが、実は最初から安易に「悪い人・いい人」分類してしまっていたところにそのミスの根っこの原因があるのではないかとも見えます。


 もっとも、良い人だの悪い人だのが一義的に決まるわけではないと言っても、自分に対する態度(もしくは自分の知見の及ぶ範囲)でそうした判断をしてしまうのは当たり前にあることで、それを停めるというのは実に難しいことなんだと思います。大罪人のカンダタでも蜘蛛を殺さずによけるぐらいのことはするのです。それを以って他の罪咎も許してあげようなんていうことはお釈迦様並にならなければできるものではないでしょうし…。私だってどこまでできるかわからないといったところです。


 それでもなおこうしたことにちょっと気を遣っておくだけで、あるいは自分の生きている局面にほんのちょっとでも変化はありそうな気がしたりします。まあ亀田家のことを考えながら、こうしたあたりまで考えが流れていったというぐらいの意味で書き留めておきます。なにやら夕方から史郎氏の会見(制限会見とも)があるようですし、そちらをちょっとニュース番組で覗いてみましょう。

*1:言い方を変えればラベリングしてしまっているとも