無限反復

 ダイエット本に関するごたごたについて岡田斗司夫氏自身の記事(主張・言い分)、「賢明なブログ読者の皆様へ」が注目を集めています。本筋はさておき、この記事で岡田氏が

 以下の文章は「ノーカットで」という条件で引用・転載自由とします。

と書いたあたりで、新たな論議の火種が付いたようにも見えます。
 もちろん引用に関しては、著作権法

公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない
著作権法32条(引用)より)

 という具合に著作権者の意志に拘わらず部分引用が可能であるように規定されていて、引用元の明記や引用部分の明示、そして引用先が「主」で引用部分が「従」の関係にあることなどの要件を満たせば誰でもできるはずのものです。転載に関してだけ触れておくべきでしたね。
 ここに突っ込むのがこの問題全体にとってどれだけ重要かという判断もされなければならないと思いますが、早速ここに食いついている人がいらっしゃって、そのコメント欄で全文を引いてみせて「部分的引用は不可」と言っているような岡田氏の言葉をおちょくるという行為にでられています。


 私が妙にひっかかったのは、このコメント欄への本文全部の引用が、昨夜寝付けずに悶々としていたときに頭の中をぐるぐる回っていた「あること」に結構近いように感じた所為です。
 その「あること」とは他愛もないことなのですが、

 人は死ぬときに走馬灯のように過去を思い出すという。もしその一生の再生が、時間的にはほんの少しの間であっても「きちんと細部にわたってのカメラ的再現」であったならば、その再現の終端近く、自分が死んでいく場面で「過去を走馬灯のように想起している自分」にあたったとき、そこで思い出されるものが再び回想の中に初めから入り込んでしまうのではないか?
 それならば、傍で見ていれば一瞬に終わるような時間で、本人の頭の中では入れ子構造になった過去の回想が延々と(あるいは永遠にも等しいような回数)繰り返されてしまっているのではないか?

 というような、まあ妄想です。過去の回想という行為の中に、その「過去を回想している自分」が入り込んでしまったならば、それは終わりを迎えることがなくなるはずだからです。
 アキレスに追いつこうとする亀が、アキレスのいたところまでたどり着く間にアキレスは必ずほんの少し進んでいる…というあれみたいに、無限に微分された時間の中で、じりじりと記憶の反復が続けられるというようなイメージ。本当に悪夢っぽいと感じました。


 岡田氏の文章では「以下の文章」という限定が付いているのでおそらくここまではいかないのですが、もし全文引用必須の範囲にそのコメント欄自体が含まれたとして、そのコメント欄に「全文引用」が書き込まれたとすれば、そこに書き込んでいっている自分自身も含めて再び最初から反復されなければならなくなります。もちろんこの入れ子構造も理論上無限に続くものと思われるのです…


 実際には「走馬灯的回想」は(あったとしても)もっと断片的なイメージの羅列でしょうし、よしんばカメラ的再現で思ったことや言ったこと、感じたことまで再生するということだったとしても、脳内で信号が伝達される速さには限界がありますから、それが悪夢のように永遠に繰り返される以前にスタックしてしまうことでしょう。そしてそこで終わりと。


 岡田さんもややこしいことを書かずに、また「一週間後」なんて言わないで簡潔に事実を語ればいいのにと、それだけが氏の記事への私の感想です。まあそれは話の枕。夕べ変な妄念が辛かったので、それを書いておきたいと思ったのでした。