あいさつ2

 某新古書店や某ドラッグストア、某量販店など客が入店すると「いらっしゃいませー」のリレー。出て行くと「ありがとうございましたー」の連呼。人にもよるでしょうが、私はあのノリが好きではありません。
 何より端々の彼らは客の方も見ないで、リードの誰かの「いらっしゃいませー」に反応して追随しているだけの場合も多いです。見たとしても横目でちらり。そういう声かけは「賑やかし」にはなるでしょうが挨拶ではない。それはただ威勢のいい発声に過ぎません。
 でも同時に、どこかのお店に入って「ごめんください」の一言を発する局面もかなり減っているのも事実。むしろそういう挨拶の交換による「パーソンtoパーソン」のつきあいをうっとうしがったのも私たちであると言えはしないかと思っています。デパートなどで売り子の人が声かけをするのをプレッシャーだと嫌がり、むしろそういう声かけをしないと標榜する郊外型量販店などに人が集まったというところはなかったでしょうか。


 私がただの声かけに苛立つのは、それが非人格的な発声に過ぎないと思えるからです。でも同時に、いちいち人格的なつきあいを買い物毎にしなければいけないとすれば、それはそれで私を消耗させるかもしれません。


 アノニマスな「購買者」でいたいと考え、値段の多寡で購入を決定するのを合理的と考えていたのは消費者の側でしょう(それが多数だったということ)。地方地方の商店街がシャッター街化していったのも、郊外店の気楽さ、値段の安さ、駐車場の完備などを理由に私たちが寄り付かなくなった所為であるのは確かではないかと思います。そしてその傾向のどこかに、「パーソンtoパーソン」(personは「人格」という訳語も持ちます)の付き合いは省略できた方がいいという判断が絡んでいなかったとは言い切れません。
 田舎が、村がうっとおしがられたのも、その濃密な人間関係や(個人的)情報の思いがけない流通というものが関わっていたと考えます。「はてなムラ」が悪し様に言われる時、それはこういう「うっとおしいもの」を持つコミュニティーだと考えられている時でしょう。


 ある時期確かに私たちは都会のスマートさ、人間関係の薄さ、匿名性の利便、そして挨拶もたいしてしなくていい「便利さ」を願わしいものと感じ、その対極にある濃い人間関係をネガティブに捉えてきたのだと思います。
 でももしかするとそちらの方向にだけどんどん進むことに対して、そろそろ考え直すことも有効になっているのかもしれません。