あいさつが怖い?

 この春からの同僚で、とても挨拶が苦手な人がいます。話を向けてみるとそれなりに話しますし、決して悪意をそこにみるわけではないのですが何故か「おはようございます」がなかなか言えない。こちらは十も年上なので、ちょっと挨拶をちゃんとしようと言ってみたり、それを何度も言うのも野暮なので自分ではっきり挨拶をしてみたり、水を向けてもなかなか…
 そのことについていずれちゃんと話したいなと思いつつしばらく経ちますが、もしかしたらと思うのは「あいさつを自分からするのが怖い」んじゃないかということです。それは無意識かもしれませんが、挨拶という形で他者に何かを投げかけて、それが帰って来なかったときの(他者からの)拒絶感が彼の挨拶に対する敷居をとても高くしているのではないかということです。まだ憶測ではありますし、本人も意識していないならば話してもわかるかどうかなのですが。


 挨拶は基本、とか挨拶は潤滑剤とかいう話はよく耳にします。そしてこれはもう訓練・しつけのような形である時分に(反射的に出るように)「身につける」べきものなのかもしれません。深く考えてしまえば(逆に言えば軽く、もしくは形式的に考えない限り)、そこには重い意味合いも案外見られてしまうところなのかもしれないということに思い至りました。
 それこそ挨拶が基本で潤滑剤だとしたら、どこかでそれに対する返答が得られないことは「お前なんかどうでもいい」という拒絶の意味で人に働いてしまうことがあるのかもしれません。そして彼はそれに怯えてしまうところがあるのかも…と思えたんです。(こういう想像が出てくるような、人付き合いに巧みではないタイプの人です)


 もちろん「他者が怖いからこそ挨拶する」と考えておられる方も少なからずいると思います。たとえば登山やトレッキングの時のすれ違いざまの挨拶は、寂しい山中で害意を相手に持っていないことを伝え関係を緊迫させないための手段…という意味があると伺い、それになるほどと頷いたこともあります。
 そういった挨拶で思い出すのはまだ私の愛犬が若かった頃、朝まだきの散歩で林の中を歩いている時、向こうから来た(朝帰り?)の見るからに田舎のヤンキーという感じの子が元気に「おはようございます」と声を掛けてきて腰が抜けるほどびっくりした経験です。すーっとその子は通り抜けていったのですが、しばらく自分でも何があったのか理解し難く、だんだん「しつけをちゃんと受けてるなあ」と笑いが込み上げてきたものでした。
 言葉だけではなく、態度なども挨拶には重要なファクターでしょう。そこらへんはやはり「慣れ」がないときちんと出せないものかもしれません。そして気合とともにちゃんとした挨拶ができるならば、それは見知らぬ他者に対しても毒気を抜く最良の方法の一つになりそうな気がします。


 でもそこらへんの機微よりも、まず自身に対する拒絶に怯える人は挨拶を恐れてしまうものかもしれないと思ったとき、単純に同僚に挨拶を押し付けることもできないと思えたのでした。
 また、こういう感覚を想像できたということからもわかるように、私もたとえば山中で自分から挨拶していくことには苦手感を実は持っています。近所の道路を歩いている時、小学生や中学生に挨拶されてもびくっとすることが多いかもしれません。(そして曖昧に頷いてみたり…彼のことはあまり言えませんね)
 知り合いに挨拶すること、挨拶をかけることにはためらいがないのですが、これもあるいは「慣れ」でしかないのかもしれません。
 一度考え込んでしまえば、挨拶っていうのは何て難しいんだと思わないでもないですね。