責任を引き受けるのは自由意志の発現

 先日紹介した前田英樹氏の『倫理という力』ですが、氏は、人間の中には何か一つの潜在的道徳と呼べるものがあって、その倫理の原液を各自の根っこから汲み上げ、各々の倫理の胚珠が開かれていく…というような(暗喩に満ちた)論立てをなさっています。
 この筋立て自体に私ははじめ馴染めなかったのですが、端々にある考察や事例に納得するうちに氏がどうしてこう表現しなければならなかったのかということは徐々に理解していったと思います。最初からこれで躓く方も少なからずいそうなのですが…
 さてそういう説得力を感じた端々の考察の一つですが、「電車で席を譲るのはなぜか」と題した節のお話はとても好ましい説明に思えました。

 お年寄りに席を譲りましょう、体の不自由な人を思いやりましょう、いたわりの心が大切です。こういう押付けの標語では、子供は恥ずかしくて席を立てない。譲られたほうも座る気がしない。

 それではそこに何があるのか? 前田氏はその行為から来る強い喜びがあるからだと、倫理の胚珠を揺さぶる道徳の言葉が語られているからだとされます。


 子供の頃奈良で剣道の町道場に通っていた前田氏は、その当時の思い出として次のようなエピソードを語ります。遠征で子供たちが電車に乗り込むときのかつての先生(師匠)とのやりとりの思い出です。

 …先生は私たちにまず一番最後に乗り込むように言い、立っている人が一人もいなくなるまで座るなと言った。
 私たち子供は、その言いつけを守ることに無邪気に奮い立った。なぜなら、私たちは先生の考え方をちゃんと知っていたからだ。先生の考え方はこうである。お前たち剣道をする者は、しない者より強い。強いと無理にも思い込まねばならん。剣道をして強くなったということは、しない者に対する責任がたちまち生じたということだ。電車では最後に座る者となって、その責任を負え。こういう教えに男の子たちがどれくらい発奮するものか、今の大人はもう忘れているのではないか。

 ここで前田氏が語られるのは、責任を引き受けるという意志の喜び、その倫理的な喜びについてです。そしてこの自らが自らに為す「約束」、他人に責任を負うという自分への命令の中に「命令する自分とされる自分との行動による統一がある」とき、ひとは「自由」を感じるのだと前田氏は言うのです。
 自分に対する言い訳がなくていい状態、これこそが自由意志であり、ひとはその自由意志への欲求を持つのだというのが氏の考察の柱の一つです。

 義務は負いたくない。是が非でも負いたくない、という者がもちろんいる。社会は、そういう人間をいつでも実に多く抱えている。そういう社会全体の成立に対して、なおかつ義務を負おうとすることが、自由意志によって生きることである。義務から逃れようとすれば、約束は消え、強制されたルールが現れるだけだ。そのルールの従順な奴隷になるか、何とかルールをかいくぐって自分だけ得をするやり手の奴隷になるか、いずれにせよ、なかなかつらい、やりきれないことである。
(下線は引用者)

 実際、先の道場の先生の言葉は、責任ある立場を選べという命令の言葉なのに選んだのは自分だぞ(自由意志だぞ)とする矛盾したところを持っています。お前は自由に選ぶんだとしながら、そこで生じた責任を負えと命令もしています。
 これが「奇怪な説教」にならずに済んでいるのは、ひとえにこうした教えに発奮するようにひとが生まれ付いているからであって、その命令―自由―責任の連鎖が作動させられるように元々一つの根源的な力があるのだとするのが前田氏の考え方です。その根源的道徳の力を私たちは受け取って、それを倫理の胚珠から育て、行動へと実現するのです。

 …私たち子供が習い覚えた剣道など何事でもない。この先生の発明で偉いところは、無理にも強いと思い込め、というところだろう。これは単に強い者の考え方ではない。責任を負うことを選ぼうとする者の考え方である。道場の外に出れば剣道をしない他人がうようよいる。その他人に対して責任を負おうとすることが、剣道で「強い」ことだ。そういう考え方なのである。
 剣道は口実にすぎない。人間はさまざまな口実で、無理にも強いと思い込むことができる。弱いと知りつつ、思い込み、席を譲ることができる。そういう人間はすでに強く、その強さは倫理的である。
(下線は引用者)

 こういう考察を読みますと、不幸自慢をしたりというのはなかなかできなくなると思うのですが。これは自分の方が不幸だと言ったりする態度のおよそ対極にあるものではないでしょうか。そしてこれを読んで、何か微妙に倫理的行為が与えてくれる喜びといったものが私にも思い出されてくるように感じられます。私がこの考察を好ましいと思えるのはそこに理由があるのかもしれません。これはある種の人を勇気付けるものでしょう。