「傷つけられた―傷ついた」の背景

 どこかで「揉め事」があったと聞くと、自分には全然関係なくても内容や経緯を聞きたくなったり、そこで情報収集につとめたり、自分がどう思ったか書いてみたり、どちらかの肩を持ってみたり…
 こういうのはよくあることです。私も決して他人事とばかり言っていられるものではありません。噂話が好きで口さがないのは世の常のこと(イイコトとは思いませんが…)。でもこういう揉め事の周辺では「当事者じゃないのに口を挟むな」ぐらいのことが言われたり意識されたりすれば、ちょっと顔を赤らめて周りが引くというのもまたあること。内容にもよるわけですが、そこでしか決着が付かないというところからその揉め事は結局当事者どうしのものであるというのが多くの場合の通常の認識ですから。「夫婦喧嘩は犬も食わない」なんていうのもこうした状況を言い表す一つの例ですね。


 ところがそれが「揉め事」ではなく「誰かが傷つけられた」のだというような言われ方をすると、第三者の介入が容易になると言いますか、「傷ついた」側は弱者で、それも自分では有効に反撃することもできない「可哀想な」立場の人みたいになって、そして「傷つけた」者に何か言ってやるのが正義というように見えてきませんか?
 「傷つけた」側はもう寄ってたかって袋叩き。そしてそれを知っている当事者は、できるだけ自分が、早く「傷付けられた者」という錦の御旗をかざすことを望むようになる…
 昨今の「傷つけられた」という言葉の流行の背景にはそういうところがあると見えてなりません。