日本にファシズムはあったのか?
hazama-hazama-hazamaさん@大惨事!過下郎日記の大阪府知事選 再び日本がファシズム国家となる可能性はあるのか?より
…ファッショな発言を繰り返さば、ファシストなり、だ。
この選挙結果を見ると、日本が再びファシズム国家となるのも存外ありうるのではないかとも思えてくる。
一方でファシストが知事を勤めている東京都が絶望的にまで酷いことになっていないことを考えると、あまり心配をすることもないのか。
ただ、世の中にはファシストとそのシンパがいくらでもいるということは言えそうだ。彼らからすれば僕は度し難い非国民であろう。それを肝に銘じて外では慎重に振舞わなければならないと思った次第。
ファシズム体制に巻き込まれたら巻き込まれたで、はっきり言ってそれは僕にはどうしようもないことだが、そんなものに巻き込まれるのは金輪際真っ平ごめんだ。
今頃気づいたのですが、ハザマさんが復活されていた模様。少し嬉しいです。
さて上記引用は氏が先の大阪府知事選の論評として書かれていたもの。まあ私は大阪の知事選に関してはたいして知見もなく何事か言おうとも思わなかったのですが、この文で少しひっかかったのが
日本が再びファシズム国家となる
ここです。ファシズム云々ということで言えば、これは今や専ら曖昧な罵倒のレッテルとして機能している言葉だなあと思っていまして(その筋で「禁煙ファシズム」という言葉ももちろん嫌いで使っていません。これはおそらくハザマさんと同じ)、ここで湧いた興味は「日本にファシズムはあったのか」という事実関係、認識についての関心です。これが実は「当たり前」ではないと思っていたりするのです。
ちょっと思い出すのが、去年の3月ぐらいに「たんぽぽ」を名乗る方が非常に熱心に私のある記事を中心にコメントを繰り返されて*1、その議論の中でファシズムについてやり取りを行なったところです。そこの部分だけ抜粋しますと…
uumin3 …ファシズムを例に挙げられていますが、まさにその「ファシズム」のように「宗教右派」 を得体の知れない言葉にして、単なる罵倒語にしても意味がないと考えているわけです。ファシズムって何 ですか?簡にして要領を得たファシズムの定義など私は聞いた事がないのですが。専ら聞くのは相手を貶め るために使われている語ではないかと(…個人的感想です)。そういう術語の拡大解釈−恣意的適用は、 様々に思考するために便利なのではなく、むしろ思考停止するために便利なのではないかという疑いすら 持っております。 たんぽぽ …それから、「ファシズム」は、れっきとした歴史用語、政治用語ですが。 おもに、第一次世界大戦後に現われた、一党独裁による、全体主義や権威主義体制を指します。 (あるいは、そうした政体の行なう、政治的自由活動の抑圧行為を、包括的に指します。) uumin3 …歴史的文脈をはずれた「ファシズム」の用法、特に政治的に一般化して用いられるこの語 の危うさを全く御存知ないのですか? こういう簡便な定義を以ってことたれりとされるならそれはもういい のですが、あなたが前に挙げられた『昭和のファシズム』とかについてもたとえば「大衆運動」としての側面 がないので当てはめはできないという論者もおりますし、そうそう安易に使っていい用語とは私は思っており ません。
(※抜粋ではよくわからないと思われる方は、2005年の■[宗教] 宗教右派(Religious Right)という記事のコメント欄をご覧ください。議論としてはこの抜き出した部分は枝葉なのですが…)
私が上記疑問を持つようになった直接の理由は、ガバン・マコーマック氏*2の「ファシズムと日本社会」*3を読んだからです。そこではかなりはっきり「日本にファシズムがあったと考える欧米の学者はほとんどいない」ということが、なぜそうなのかということと共に詳述されていました。
「ファシズム」という概念は、第一次大戦直後のヨーロッパにおける左右の分極化という文脈の中から生まれた。ヨーロッパの革命運動が、それまでの伝統的反動や保守主義とは重要な点で異なっている新現象に直面し、それを把握しようと努めることから始まったのである。当初は、この概念は一九二二年から四五年までイタリアを支配したムッソリーニの率いる運動に関して使われた。この種の狭い使い方については、広い合意が成り立っている。
歴史学者の多くは、語義を拡大して、ドイツの国家社会主義を含ませる。第一次と第二次の大戦間に発生したヨーロッパの現象全般を叙述するために「ファシズム」という語を使う歴史学者も少なくない。さらに意味を広げて、W・シーダーのように「権威主義的で堅固な序列構造を持つ一方、権威主義的または全体主義的政権を樹立したか、あるいは樹立することを目標とする反民主的・反自由主義的・反社会主義的イデオロギーを持つ、極端主義的・国家主義的運動のすべて」といった定義を下す研究者もいる。
(中略)
このように、西洋におけるファシズムの理論家の中には、さまざまな対立があるが、一定の合意も存在する。このコンセンサスは次にあげるようないくつかの重要な点を含んでいる。
第一に、ファシスト政権は、保守的・伝統的政権(または"保守的・権力的・軍事的・官僚的"政権)とは区別されるべきである。スペインのフランコ政権やポルトガルのサラザール政権は、ファシズムの本質の証明ともいうべき"急進的活力"を欠いており、したがって、保守的・伝統的政権に属する。
第二に、これと密接に関係したことだが、ファシスト国家と通常のブルジョア国家は、次の点で区別される。ファシズムは「外側から」国家機構内へと進入し、鋭い断絶を伴う。このあと、ファシズムという「外因」は、国家機構を「寸断」する。この過程を推進する大衆運動の存在は、ファシズムの「決定的特性」または「最終的特徴」とみなされ、カリスマ的指導者の支配と結びついていることが多い。
第三に、普遍的ではないが全般的な一致点として、ファシズムはヨーロッパ的現象であるという見方がある。E・ノルテは、ファシズムとは本質的にヨーロッパ的で「第一次・第二次大戦間の特徴的傾向」であるとし、H・ターナーも「特殊ヨーロッパ的」という表現を使っている。ファシズムについての関心と研究が復活機運にあるというのに、この機運を推進している西洋の研究者の中で、日本に注目している人は驚くほど少ない。日本のファシズム問題に触れている数少ない研究者のうちほとんどは、J・リンツなどのように、右にあげた反動的保守支配との根本的区別の不在、または鋭い断絶点の不在、それにリンツの言葉を借りれば「ファシズムの特徴である心情的ロマンチシズム、積極的実践主義、それに大衆の参加を欠いていた」というのである。
(※強調は引用者)
それでは大正から昭和初期にかけての期間、日本には何があったのかということなのですが、そこには「軍国主義」があったとされるのが主流だと話は続けられます。
…こうして、三〇年代のヨーロッパでの運動を分析するにあたってはほとんど使われなかった軍国主義という範疇が、日本について記述する西洋の研究者の正統となっていった。
こうした西洋における正統的見解についての詳述は不必要だろう。E・ライシャワー他著『東アジア』の中で、この立場を代表するひとり、A・クレイグはこう欠いている。
「しかし、この時期の日本はファシズム的であるというよりは、軍国主義的であると言った方が当を得ている。当時の基本的な国家機構は、目新しいものでも革新的なものでもなかった。その表面は管理装置でおおわれ、その中には、野放図な精神主義的ナショナリズムが浸透していた」。
これほどはっきり「軍国主義的」というラベルに張り替える歴史学者は多くなかったが、三〇年代の日本がファシズム的でないという合意はかなり広く行き渡っている。
(中略)
つまり、日本についての西洋の研究者によると、カリスマ的な指導者、大衆的ファシスト型政党、明確な転換、ナチス・ドイツほどの規模の弾圧(たとえば死刑囚収容所)などのいずれもが三〇年代の日本には欠けている。しかも、明治期から三〇年代までの日本の制度や支配層には、一貫した連続性がある。したがって、「ファシズム的」というラベルを日本に貼るのは不適当だというのである。
私はこういった議論は非常に説得的だと思います。ラベル貼りに堕してしまったような「ファシズム」という語には興味はありませんが、こういうレベルでの議論というものは非常に見てみたく思ったりします。あと蛇足ですが、日本の研究者たちには「日本におけるファシズムの存在を肯定している」人が少なくなく、それは50年代に丸山真男が作った理論的・概念的構造、その枠組みに立脚しているものが多いとかいうことも言われ、それについては
丸山のアプローチには、重大な問題点が含まれている。まず第一に、「上からのファシズム」と「下からのファシズム」の両者の関係を、弁証法的ないし力学的に解明していない。その結果、「上からのファシズム」が敗北して、「上からのファシズム」が勝利を得るという逆説に陥ってしまう。まるで、ムッソリーニやヒットラーが粉砕された結果、ファシズムがヨーロッパに発生したかのような主張をしている感がある。
第二の問題は、丸山の定義のあいまいさにある。橋川文三が一九六四年に指摘したところによると、丸山説はファシズム(国家主義)を伝統的国家主義(ナショナリズム)と区別する適切な基準を欠いている。ファシズムの起源が明治国家体制の中にあるとみなしている点で両者は混同されているし、日本ファシズムのイデオロギーとしてとくに丸山があげる三点―「家族制的傾向」、「農本主義」、それに「アジア国家の解放ないし大東亜原理」という考え方―は、伝統的国家主義を定義づける特性であるとも考えられるからである。
もっと最近になると、筒井清忠が丸山のこの分野での著作全体を批判的に検討している。彼は、右にあげた日本ファシズムの特徴としての三点とは別に、丸山の論からファシズム全般についての六つの規定的特性を取り出し、これらの特性はフリードリッヒなどのいう「全体主義」システムの特徴とみなすことができると論じた。つまり、丸山の叙述はファシズム一般と同様、スターリニズムにもあてはまるわけである。(中略)さらに、丸山によるドイツ国家社会主義の性格の過大評価や三〇年代初期の日本の急進的な運動の性格把握(日本ファシズムにおける「大衆的基盤の欠如」)を検討すれば、丸山の議論は、きわめて暫定的で、その後広く疑問視された実証や研究の結論に基づいてのみ構築されていることがわかる。
最後に、丸山がファシズムの社会的基礎を論じて、プチブルの中の「擬似インテリ」部分―小工場主、町工場の親方、土建請負業者、小店主、大工棟梁、小地主ないし自作農、小学教員、村役場の吏員・役人、下級官吏、僧侶、神官―などをあげているのは、あまりにも手当たりしだいというものであろう。
などなどと批判が加えられています。丸山真男の業績を全否定するものではないと言いながら「彼の著作はすでにその役割を終えた」とする厳しいものです。
こういった言葉に対して、最近の日本の研究者がどう応えているか、あるいは的確に反論できているのかといったところについてはわかりませんので、どなたか詳しい方にお聞きしたいものだと思っています。
先に挙げた「たんぽぽ」さんというのは、おそらく最近再燃したあの水伝議論で「エセ科学批判」を堂々となさっていた方でしょう(参考:たんぽぽさんと斎藤さん@玄倉川の岸辺さん)。興味を持って訪ねたたんぽぽさんのサイトの中で、私の当該記事についての言及を見つけましたから(ちょうどコメント欄に頻繁に来られていた頃です)。
それにしても…と思います。自分の知っている分野では強気に出られていても、それがあまり詳しくない分野ではとんでもない「思い込み」で「不正確」な議論をしてしまい、それで恥をかくなんていうことは自分にもありそうで怖いものだと、本当に気をつけようと感じたのでした。