「死んだ人は生き返る」について

 京都新聞の記事「1割「死んだ人は生き返る」 福知山市教委が小中学生にアンケート」がちょっとネタ的に捉えられているようです。

 京都府福知山市の市教育委員会は23日、昨年末に市立全小中学校の子どもを対象に行った「命の大切さを考える児童生徒アンケート」の調査結果を発表した。回答数6783人のうち、約1割が「死んだ人は生き返ると思う」と答えた。


 いじめや自殺の増加が社会問題になるなか、子どもたちの命に対する認識を把握しようと実施した。同市教委によると、府内でも初の試みという。アンケートは、死生観やいじめに関する全5問。回答は選択形式と自由記述で行った。


 「死んだ人が生き返るか」の問いには、76・9%が「いいえ」と回答。「生き返ると思う」は9・7%で、理由は、「ゲームで死んでも、もう1回プレイできる」「魂はまた戻ってくると聞いた」「死んだ命はまた違う命になる」「病院で何とか治せる」などの記述が学年を問わずあり、ゲームやテレビの影響がみられたという。

 一つには「なんでもかんでもゲームで語るなよ(苦笑)」という面、そしてもう一つには「死んだ人が生き返るなんてトンデモを信じているのか(笑)」という面でこれがネタ的注目を浴びるのだと思います。でも考えてみれば、何らかの形での死後の意識の存続(それが魂という形にせよ)を言う人はこの社会にまだまだ多くいるわけですし、それをいちいちトンデモと決め付ける人はいません。
 このアンケートの設問は、現物がないのではっきりしたことは言えませんが、どうも小中学生にはあまりに抽象的かつ答え辛いものだったのではないかと推測されます。


 「ゲームで死んでも、もう1回プレイできる」
 というのは、死んだ人が生き返るということが(現実・フィクションを問わず)有り得るか(表現されているか)という問いで捉えたら回答としては納得されるもの。


 「病院で何とか治せる」
 はちょっとピンボケ回答かもしれませんが、医療現場には「蘇生」という用語が厳然としてあります。呼吸停止・心肺停止から回復することを生き返りと考えても何らおかしくはないのです。


 そして
 「魂はまた戻ってくると聞いた」「死んだ命はまた違う命になる」
 などの回答は、きわめて宗教的な言葉に聞えます。親や祖父母が信心深い人、あるいは誰かの御不幸があって葬儀の類を経験した子供は素直にこうしたことを思うのかもしれません。
 一番こうした宗教的な話が語られるのはやはり誰かが亡くなった時でしょう。半分は修辞的表現でしかないかもしれませんが、「あの世へ行く」「待っててください」「見守っていてください」「好きな○○を買って来たよ」等々そこではあたかも亡くなった人の意識(もしくは存在)が依然として有り続けるかのように呼びかけ、語りかける言葉が紡がれているのです。 それを笑う人はあまり見かけませんよね。


 本当は、設問が「現実のこと」への質問であり「完全に回復不能となった死者に対する」ものであり「宗教的な事柄ではない」という前提が明示された上での問いになっていなければいけないのでしょう。
 ただ、設問を極めて厳密に限定的なものとすることも小中学生には却って理解されにくくなってしまう原因となるかもしれませんし、結局のところアバウトな質問にしかならないのならば、その設問の所為で曖昧な答えが戻ってきたとしてもそれらは例外的なものとして処理しなければいけないのかなとも思います。


 「何でもかんでもゲーム、ゲームだな」という点では確かに苦笑ものの記事かもしれませんが、この見出しに見られるような受け取り方をさせる(する)人も多いような気がして、それはおかしいと感じたのでした。

 「赤ちゃん誕生の喜びを感じたことがありますか」の問いには、全体の42・5%が「ない」「わからない」と回答。人(低学年は「動物」も含む)が死んだ時に悲しんだ経験も、28・7%が同様の答えで、市教委では、生死にまつわる感動体験がない子どもが多い、と分析している。

 というのも突っ込みどころでしょうか。ある種のゲームはあざといまでに死の悲しみを強要するところがあると個人的には思っていますし…。
 いえ、FFのことだけ言ってるわけではもちろんありませんけど。

追記

 これを書いてからplummetさんが同じ記事を取り上げていたことに気付きました。
 世界の中心で左右をヲチするノケモノ【厭離穢土編】の昨日の記事です。
 そしてここからリンクされている過去記事、「長崎県教委「生と死」アンケートについて〜誰が一番アフォだったか」を見るともう唖然という感じでした。興味のある方はぜひ。