ナチス占領下の陽気なパリ市民

 epuration(浄化)
 排除・追放・刷新とも訳されるこのエピュラシオンという言葉は、第二次世界大戦でパリが解放された後に吹き荒れたコラボ(collaborateur=対独協力者)狩り、追放と粛清のその嵐のような事態をも指します。モノクロのフィルム画像で、ドイツ兵の相手をしていた売春婦たちの頭をバリカンで刈り上げて坊主にして辱めている場面を見たことがあります。彼女たちは泣いていました。頭に残るシーンの一つです。


「ナチス占領下の陽気なパリ市民」写真展に非難の嵐

【4月24日 AFP】カフェでのんびりくつろぐ人々、映画館に群がる人々、競馬を楽しむ人々――ナチス占領時代のこうしたパリ市民の姿を撮影した写真展にパリ市民が激しく反発、中止を求める声も上がっている。


 「Parisians under the Occupation(占領下のパリ市民)」と題されたこの写真展は、現在パリ市歴史図書館で開催中。会場には、ナチスプロパガンダ誌「Signal」のカメラマンとして働いていたフランス人写真家アンドレ・ズッカ(Andre Zucca)氏が撮影した未発表の作品約270点が展示されている。これらは、ナチスによる4年間の占領時代を写した唯一のカラー写真の重要なコレクションとされるものだ。


■「占領下のパリの真実を伝えていない」と市民ら激怒

 だが、この展覧会に並ぶ、水玉模様のドレスでパリの大通りを散歩する女性やルクセンブルク庭園で遊ぶ子どもたちなどの写真に対し、激しい非難が巻き起こっている。1940-44年のナチス占領下で数千人ものユダヤ人が強制移送されたことや、数え切れないほど多くのパリ市民が苦難に耐えたことを、これらの写真は表現してはいないというのだ。ユダヤ人であることを示す黄色の星形のバッジを付けた黒いコートの老婦の写真、ユダヤ人居住区で同様のバッジを付けた男性の写真の2枚のみが、当時ナチスの占領下だったことを感じさせる。


 前週末に写真展を訪れたパリ市庁文化事業担当者のChristophe Girard氏は、作品を見て腹立たしく感じたと語る。「ズッカ氏の写真は占領の現実を何も見せていない。見せているとしても、ほんのわずかだ」として、写真展の中止を訴えている。(後略)
AFPBB


 第二次世界大戦の緒戦において、アルデンヌの大森林地帯からの越境という形でドイツの装甲師団電撃戦マジノ線を突破され、フランス国民には厭戦気分が高まっていたといいます。当時のポール・レノー政権は、1940年6月10日にパリを捨てトゥールに移ります。
 トゥールに移ったフランス政府では、レノー首相らの徹底抗戦派とペタン副首相(第一次世界大戦時の英雄・元帥)らの休戦派に意見が分かれましたが、国民感情を背景に休戦派が多数を占めることになります。
 そして1940年6月16日に内閣は総辞職。84歳のフィリップ・ペタン元帥を首班とする内閣が成立して、翌6月17日にフランスはドイツに対して降伏したのでした*1。6月22日には仏独休戦協定が締結されます。そしてトゥールからボルドーに首府を移していたフランス政府は、さらに7月1日フランス中央部の高地の小都市ヴィシーに首府を移動します*2
 7月11日にペタン元帥は共和国大統領職を廃止して国家主席に就任。これで1870年から続いていた第三共和政は終わり、これ以降パリが解放されるまでの4年間がヴィシー政権期と呼ばれるのです。

 休戦協定は締結された。戦いは終ったのだ…。我々が同意しなければならなかった条件は厳しいものである。…だが少なくとも、名誉は守られた。何人も我々の飛行機や艦隊を使用することはないであろう。我々は、本国と植民地において、秩序を維持するのに必要な陸海軍部隊を保持している。政府は依然として自由である。フランスはフランス人によってのみ統治されるであろう。
 (フィリップ・ペタン元帥)

 ドイツの占領国家の中で唯一フランスのみが「政府」の保持を認められましたが、パリを含む国土の北半分とボルドーを含む南西部はドイツの占領地区とされました。また北東部のアルザス・ロレーヌ地方はドイツに併合。マルセイユを含む南西部の一部地区はイタリアの占領地区。そして残った国土の三分の一ほどがヴィシー政権に任された自由地区でした*3


 ヴィシー政府は様々な対独協力(たとえばドイツ軍占領地区でのユダヤ人狩りなども含む)を行い、それによってドイツから相応の待遇を引き出そうとします。フランス人の中にもナチスの主張に説得された者もおりますし、名士と呼ばれるような保守派はその多くがヴィシー政権に協力的でありました*4


 その後1944年8月に連合軍がパリを取り戻し、時を同じくしてヴィシー政権は崩壊します。ペタン元帥はドイツ軍の撤退時にアルザスの古城に連れていかれていました。しかし1945年4月にパリで自分の欠席裁判が行われることを聞きつけ、彼はヒトラーの制止を振り切って自らスイス経由でフランスに戻るのです。スイス側の国境警備隊は敬礼をして元帥を見送りましたが、フランス側は敬礼もしなかったそうです

 私は自分の力を、フランス人民を守る楯として役立てようと、あらゆる努力を重ねました。そのために私は、自分の威信をさえ、泥土にゆだねた。私は占領下の国家の首長としてとどまったのです。こういう条件下で行政を行うことがいかに困難であるか、わかっていただけるでしょうか?
 (裁判時のペタン元帥の言葉)

 27人の判事による評決で、14票対13票でフィリップ・ペタンの死刑が決定します。ド・ゴールはペタンの老齢を理由に無期禁固に減刑しますが、獄中のペタン元帥は、自分よりも自分の下でヴィシーに協力したために投獄された人々の方が心配だと語ったそうです。ペタン元帥が亡くなったのは1951年、95歳でありました。


 忘れてはならないのは、ヴィシー政権こそがフランス国民に選ばれた合法な政権だったということです。
 ただしそれは彼らが忘れたい黒歴史でもあります。


 「フランス人は皆勇敢にレジスタンスを戦った」というレジスタンス神話を否定するようなこの「ナチス占領下の陽気なパリ市民」写真展は、当時を知る人の心を逆なでするものに間違いありません。でもそれもまた一つの歴史なのですから…。

*1:この日のうちにド・ゴールは、前首相レノーがくれた機密費10万フランをポケットに、英軍機に飛び乗ってイギリスに亡命しています

*2:ヴィシーは南仏の温泉地で、ホテルが多いことから政庁を設置するのに便利と考えられたのだといわれます

*3:ただし連合国軍の北アフリカ上陸をうけ、ドイツ軍は1942年11月11日フランス全土を占領しています

*4:しかしドイツは占領税と労働力の提供をヴィシー政権に求め、1943年1月には強制労働徴用が導入されて数十万の若者がドイツへ送られることにもなってしまいます