譬え話

 マールンクヤプッタは商家の跡取り息子で聡明な青年でしたが思索好きの引き籠もりでした。商売には関心がもてず、いつも「人間は死んだらどうなるのか」「魂は存在するのか」などなどの小難しい問題を壁に向って座りながら考えていました。
 さすがに心配した両親は、マールンクヤプッタを評判の高い仏陀釈尊)のところに向わせました。


 釈尊のもとに行ったマールンクヤプッタは、自分が学んで考えてきたことを次々に釈尊にぶつけてみます。
 「自分は魂があると考えています。こういう人のこんな学説でもそうです。しかじかの理由で魂はあると言えるのではないでしょうか?」
 釈尊は答えます。
 「マールンクヤプッタよ。その通りだよ。魂はあるんだよ」


 また青年は釈尊に尋ねます。
 「しかしお釈迦様、魂は存在しないという説もあります。これこれの理由で魂は存在しないと説く人がいます。これには頭を悩ませるところです」
 釈尊は答えます。
 「マールンクヤプッタよ。その通りだよ。人は死んだらそれで終りで、魂など存在しないのだよ」


 青年はさらに疑問をぶつけます。
 「でもこういうことを言う人もいます。人間の魂というものは、存在していてかつ存在していないのだと。私はここにも道理があると考えます」
 釈尊は答えます。
 「マールンクヤプッタよ。その通りだよ。人の魂は有りかつ無いものなんだよ」


 青年は食い下がります。
 「それは次のことを言う人と同じなのでしょうか。魂は在るのでもなく無いのでもないという説です。これこれの理由で私はこの説にも正しさがあるように思います」
 釈尊は答えます。
 「マールンクヤプッタよ。その通りだよ。人の魂は存在するのでもなく存在しないのでも無いものなんだよ」


 自分が馬鹿にされたような気がしてマールンクヤプッタは切れて罵りはじめます。お釈迦様っていうのは何て食わせ物だ。人の話の鸚鵡返ししかできないのか…
 そこで釈尊は次のように説きます。
 「今ここに毒矢で射られて死にかけている人がいる。この人のまわりに多くの人々が寄ってきて、やれこの矢の材質は何かとか、矢羽根はどんな鳥のものかとか、矢じりは鉄なのかとか議論を始めた。 毒矢で息も絶え絶えになっているこの人はどうなるだろう? この人が皆に一番してもらいたいことは何だろうね、マールンクヤプッタよ?」


 ここでマールンクヤプッタは釈尊に非礼を詫びて家に帰ります。そして次の日から一生懸命商売に取り組み始めたということです。ぼーっと考え込むこともなくなり、両親は大喜びでした。
 その後も釈尊はこの青年を可愛がり、親身に指導したとされています。


 これは『箭喩経(中阿含)』という有名な仏典のお話です。
 宗教(仏教)というものが、哲学とは異なる射程を持っているということもここには含意されているように思います。ましてそれは本来的には科学と対立するものでもありません。その射程は全く異なっているのですから。