自分は中立と時に人が言いたくなるのは
ほとんどこれに尽きるんじゃないですか?
http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20080504
中国人差別を正当化するつもりはぜんぜんないのに、聖火リレーに押し寄せる中国人のマナーやら言動やらを批判すると右翼と同類だと思われてしまう(ことがある。もしくはそれで発言をためらってしまう)問題ともちょっと似てるかも。あっち側かこっち側かしかないような不自由さというか。自分の感じたことが語りたいと思うきっかけなのに自分の感覚は脇へ追いやって言葉を組み立てなければならないような感じというか。
「あっち側かこっち側かしかないような不自由さ」を避けたく思うから、そして敵か味方かとかいう戦場にいたくないと思っているから…でしょう*1。
少し前に話題になった時に突っ込めなくて今頃。ぼーっとした頭だと変なことが気になって離れなくて、結局今さらだけど書こうと思いました。
それでもどんな問題に関しても不偏不党の中立っていうのは実際にはほとんどあり得ないことでしょう。そしてなんとなくのバイアスは以下のように増幅されるものです。
…まったく同じ情報を与えられた場合に、自分にとって都合の悪い情報に対しては、「信頼するに足らない情報である」という厳しい目で見てしまうという研究結果がある。社会心理学者のロード(C.C.Lord)たちの研究がそれである。彼らは、死刑を廃止すべきか存続すべきかという意見によって、被験者を二群に分けた。どちらの群の被験者にも、死刑が犯罪を防止する効果があるという調査報告と、そのような効果はないという調査報告の両方を読んでもらう。
すると、被験者の考えはより中立的なものになるだろうか。実験の結果はまったく逆であった。被験者たちは、自分があらかじめもっている主張と反対の報告に対しては方法論的な欠点をいくつも指摘する一方、主張を支持する報告は良い研究であると評価する。最終的には、むしろ自分の主張をますます強めてしまったというのである。
(市川伸一『考えることの科学』中公新書 より)
ここらへんで「自分と違う」と見えた人を「あっち側」と判断してしまうようなことからは、なかなか人は逃れるのが難しいのかもしれません。
※もしかしたらこれ
→影との戦い(ネット右翼はいなかった)
も関係する話かなと思いましたが、そこまで書く元気がありません。
*1:kmizusawaさんがそうだというわけではないのです。ただこの言葉が自分の考えをまとめてくれたような気がしました。