羊の話

 今朝は時間も無くてネタに走ってしまいましたが、実際あの放蕩息子の兄の感慨的なものが昨今大きな声になってきているような気はしています。それをちょっと書こうと思ったのですが…(もちろん元ネタは、新約聖書 ルカによる福音書 15.11-30です。訳はみな新共同訳を使っています)


 ネタで書いた下の文章では実は大事なところを省略しています。それは帰ってきた放蕩息子の悔悟の部分です。聖書では、この弟が財産を使い果たして食べるに困り豚飼いになっていたとき

 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』(ルカ 15.16-19)

 こういうふうに改悛して父のもとに帰ったとされます。だからこそ「何で弟ばかり…」と兄が文句をつけた時に父親は

 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないのか。』(ルカ 15.31-32)

 というように兄をなだめつつ真意を語るのです。
 ここでの兄は自己責任を言い、自業自得で零落した者に対して、ちゃんと努力してきちんとやっていた者(自分)がわりを食うようではおかしいとします。タンスターフルです*1
 この合理性に比べ、父親の意見は理屈には欠けるものです。これは宗教的な(もしくは倫理的な)言葉であるからだと考えられますし、実際噛みあっていない話です。これは羊の話でより明らかになります。

「見失った羊」のたとえ
 そこでイエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカ 15.3-7)

 これは放蕩息子のたとえの直前に出てくる話です。九十九匹の山羊のたとえとして有名でしょう。これとほぼ同じ話がマタイによる福音書にもあって、それは

「迷い出た羊」のたとえ
 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。(マタイ 18.12-14)

 わりに年端もいかぬ頃にこの話を聞いた私はあまりよく理解できませんでした。それは、残された九十九匹はどうなるんだろうと心配したからです。(まあどちらかというと手のかからない子だった私が感情移入するとしたら、それは当然迷子にならない九十九匹の兄弟のほうでしたし 笑)
 たった一匹の自分勝手な子が迷い出てしまって、羊飼いがそれを捜しに行ってしまっている間、きっと残された九十九匹は不安だろうなと私は思いました。そしてもしそんな時に狼が来たらどうなるんだろう?という具合に想像を巡らせました。もしかしたら食べられてしまうかもしれないと。ちゃんといい子でいたのに…。


 今のリスク・マネージメント的考え方から言うと、明らかにこの羊飼いの行為は非合理だと思われます。いえ、もしかしたらこの話が語られた当時から常識はずれのものであったのかもしれません。だからこそそれが宗教的メッセージとして受け取られるものになっているのですから。
 似たような非合理なメッセージといえば「悪人正機」がありますね。あの考え方を敷衍した『歎異抄』でも自力作善の人は却って往生の妨げをしているという話がされています。
 聖書と歎異抄の異同など語れるものではないのですが、少なくとも共にそこには常識的な判断(あるいは賢しらな知)では理解できないものがあるというメッセージがあるということは言えるでしょう。


 また羊のたとえに戻りますが、この良く似た二つの話でも込められた寓意は異なっているようです*2
 「見失った羊」のほうでは悔い改めることへの賛美が強く語られているのに対して、「迷い出た羊」のたとえでは弱き者に対する配慮がされなければならないということが全面前面に出ていると私には思われます。そしてそのどちらも理屈でわからせようというよりは「せよ」という道徳的命令として私たちに迫っているのです。


 ある意味理屈で考えれば、多数を守るために少数が犠牲となるのは致し方ないことでもあり、よく言いつけを守った方が尊重されるのは当然でもあり、自ら無謀なことをせず自力更生に努めるのは正しい生き方であると言えます。それのどこが悪い?と言われれば、少なくとも私などには返す言葉もありません。(もちろん共感するところも大です)


 しかし、そういう理屈を超えた道徳的命令のようなものがここにあって、ある人たちはそれを選び行動します。私はこちらの方にも多少なりと共感し、また憧れるところも正直あるのです。これはもう理性ではなく意志の問題ではないかと思うのですがどうでしょうか。

*1:There Ain't No Such Thing As A Free Lunch.

*2:もちろんシンボリカルなメッセージは多義なのですが