被害者メソッドは常にうまく行く(かもしれない)

 小飼弾さんが「被害者メソッドがうまく行くための三つの条件」と題したエントリを立てて、内田樹さんの「被害者の呪い」について語られています。
 小飼さんは

 自らを被害者と規定し、加害者に対して賠償を求める被害者メソッド--というより賠償モデル--が機能するためには、以下の条件が満たされる必要がある。

1 加害者を特定できること 
2 加害者が加害者であることを認めさせること 
3 加害者に賠償能力があること 

 この順番に、全ての条件が満たされて、はじめて被害者は賠償を得ることができる。が、これらの条件を揃えるのはなかなか難しい。

 という論立てで、一つ一つの項目について語られるのですが、まず最初の「被害者メソッド--というより賠償モデル」とおっしゃられるあたりで実利偏重の誤解があるように思われます。
 少なくともそれは内田氏が言うところの「弱者である私に居着く」という考え方の曲解でしょう。内田氏は「賠償」という実利を取ることを「被害者意識を持つこと」の目的としてはおられないのですから。

 「被害者意識を持つ」というのは、「弱者である私」に居着くことである。

 一度この説明を採用した人間は、自分の「自己回復」のすべての努力がことごとく水泡に帰すほどに「強大なる何か」が強大であり、遍在的であり、全能であることを無意識のうちに願うようになる。
 自分の不幸を説明する仮説の正しさを証明することに熱中しているうちに、その人は「自分がどのような手段によっても救済されることがないほどに不幸である」ことを願うようになる。

 内田氏が危惧される「呪い」とは、まさにこの不幸自慢に執着してしまう自意識であり、「不幸ゆえの正しさ」という偏頗なものに囚われてしまう偏りです。

 もし、すみやかな救済措置や、気分の切り換えで「被害」の傷跡が癒えるようであれば、それは「被害者」の名乗りに背馳する

 故に、被害者気分の深みに陥る人にとっては「賠償金」が癒しにならないような構造があると内田氏は語っておられるのだと思います。

 自分の不幸を代償にして、自分の仮説の正しさを購うというのは、私の眼にはあまり有利なバーゲンのようには思われないが、現実にはきわめて多くの人々がこの「悪魔の取り引き」に応じてしまう。
 「被害者である私」という名乗りを一度行った人は、その名乗りの「正しさ」を証明するために、そのあとどのような救済措置によっても、あるいは自助努力によっても、「失ったもの」を回復できないほどに深く傷つき、損なわれたことを繰り返し証明する義務に「居着く」ことになる。

 これはすでに「賠償金による被害の補償」>「回復」という合理的な道筋を外れてしまう「呪い」だということです。もちろんそれは自らが自らにかけてしまう呪いなのですが。


 それは「弱者でいる」という歪んだ快楽なのかもしれません。つまり実際に弱者であるかどうかが問題なのではなく、弱者という自己認識を維持して、周囲を罵倒し平伏させることのできるポジションを得ていると思い込める自意識の快楽というものがそこにあるのではないかと私には思えました。

加害者を特定できない場合
 たとえば、天災。誰かに殺されても、台風で死んでもどちらも同じ死であるが、前者には人間の加害者が存在するのに対し、後者には存在しない。もちろんこういう場合でも「未必的故意」を設定することで政府なり「被害者」がいた場所の管理者なりを加害者と認定することは不可能ではないが、とにもかくにも被害者メソッドはまず加害者を特定しないことには何も始まらない。

 これは「賠償モデル」としては理に適った分析です。しかし被害者の呪いにかかった人としては、加害者の特定などそれほどの意味を持ちません。もちろんここで小飼さんが可能性として挙げられているような政府なり管理者なりの責任を強く言うようなケースは多く見られるもの。「天災は人災」のスローガンの下、見つけようと思えばいくらでも瑕疵は叩けるものです。
 でも病が膏肓に入れば、ただ単に周囲で幸せそうにしている連中に対しても糾弾の鉾先を向わせることができるのが、この「被害者という呪い」にはまった人間の特徴と言えるのではないでしょうか。
 加害者を選ばないのです。すべて皆敵であり呪詛の対象なのですから。それゆえの全能感です。

加害者が加害者であることを認めさせられない場合
 加害者を特定できたとして、今度はその加害者が加害者であることを認めさせなくてはならないが、これまた難しい。加害者がすんなり「罪」を認めるケースというのは、被害も大したことない場合ばかりだ。被害が深刻であればあるほど、加害者が逃亡したり開き直ったりしやすくなる。…

 とんでもない。加害者が逃げたり開き直ったりする場合、自分の被害者としてのポジションは強化され持続が延長されます。それゆえ(無意識にも)非道で頑なな「加害者」であって欲しいと望むのが「被害者という呪い」にはまった人間です。そこにあるのは実利要求ではなく、歪んだ満足感の持続の要求なのでしょう。
 もし加害者が安易に頭を下げたら「頭の下げ方がおざなり過ぎる!」と文句をつけ、深く頭を下げられても「まだ頭が高すぎる!」として土下座まで要求がエスカレートしていくのがこうした人間です。そして土下座をさせたとしても、「こんなもので私の受けた傷は癒されない!」というふうにどこまでも要求は続きます。被害者であることを持続させるのが自己目的化していますから、むしろこれは当たり前のことです。
 もし合理的な被害回復が目的なら落としどころは見えますが、「被害者でいたい」と願う人相手に(少なくとも最初のうちは)落としどころなどあり得ません。

加害者に賠償能力がない場合
 こうして加害者を特定し、加害者に加害を認めさせても、最後に加害者の財産が足りるのかという問題が立ちふさがる。…

 被害者でいることに飽いた場合には確かにこれは問題になるかもしれません。でも呪いとしての「被害者」にはまっている最中の人にとってはこれは大した問題ではなく、むしろ下手に賠償されてしまえば被害者のポジションが揺らいでしまいますから、責めるだけ責めて、それで足りない部分は国とか何とかそういった立場に払わせればいいんだという「勘定を超えた」感情でいっぱいなのではないでしょうか。


 これほど理不尽で非合理的な願いだからこそ「呪い」という表現で内田氏は書かれたのだと思います。そしてこのようなものとして「被害者メソッド」があった場合、それは大抵うまく行ってしまうのです。それがむしろ大きな問題なのでしょう。
 小飼さんは合理的人間過ぎる…と少し感じてしまったのでした。