「フィクショナリティー」って何だ?

 ある種のテクニカル・タームのようです。虚構性とは違う? 
 わかるようなわからないような…ということで検索

 「フィクショナリティー」のGoogle検索によるコラージュ

 遍在するフィクショナリティ

 BLとフィクショナリティーの現在

 id:kimuraさんの「まさに偏在しているフィクショナリティ」というアイロニーのきいたタイトルの記事

 この計画で私の頭の中にあった概念はフィクショナリティでした。 あまり日に焼けないでいつでも泳げるようにしたいということで、屋内プールもあります。屋外プールのプールサイドにはバーがあり、インド洋を眺めながら一杯やることができます。

 本来ね、照明というのはそもそも、先程エネルギーとの関係の話をお聞きして、なるほどそうかと認識したんだけれども、段々とフィクショナリティが高くなる方向に照明というのは行っていると思うのね。つまり、何がアンリアルなのかって、つまり元々の照明…

 先日の「日本記号学会第28回大会 遍在するフィクショナリティ」についての記事が大反響ですごいなあ、と思っていたら、さらに話は続いているようだ。

 ひとつは、フィクショナリティであり、もう一つは、ユーモアです。…マフマルバフ自身がそれを禁じ手としていたようで… ... そう考えると、フィクショナリティとまでは言えなくても、やはりマフマルバルらしい技巧性なり作り込みというのは窺えるような

 それに対して、ぼくの思惑は、このようなストーリーこそが「フィクショナリティ」であり、そうしたフィクショナリティが一般化され、「有力な商品」として消費の欲望の対象になってしまうという現代的な状況を記号論的に暴き出せないかということだった。

 ■[SEXUALITY][これはひどい][ジェンダー]日本記号学会第28回大会「遍在するフィクショナリティ」

 住宅の中庭論 ─ 住まいの庭のフィクショナリティとリアリティ ─ 

 「身体と身体の対話」をテーマに身体の持つリアリティとフィクショナリティを広く深く追求している。

 想像力と創造力の交差という「フィクショナリティー」、そのどちらもが交錯する<場>として、ひろくふかく「コンタクト」を楽しみたい。

 論文 建築のフィクショナリティ−(1)空間の多層構造 原廣司 作品解説・作品批評 大阪芸術大学 ひとつの仕事を終えて 高橋青光一 コンクリートが建築になった 長谷川堯 名護市庁舎 地域・市庁舎・設計競技 原昭夫 地域環境系の発堀 象設計集団 光と風の 

 ただし他人のゴタゴタ。 これ重要。 → 日本記号学会第28回大会「遍在するフィクショナリティ」 - ?

 切り取る=脱文脈化するという意味において、ドキュメンタリーは、必ずそのフィクショナリティーから逃れることができません。このことを考えれば、ドキュメンタリーは「事実」を写しはするものの、決して真実を写しとるメディアではないということ。

 フィクショナリティ 岩尾恵都子の絵画が観客の心に忘れがたい印象を残すのは、それらがとても美しく、不穏な嘘をついているからに相違ない。作品に恋するかもしれない人を突然の魔法にかけるため、あるいは、美しい誤解が覚めないようにするための

 ミクも怒っています(`Д´)ノ!! なお、この作品はフィクショナリティーであり、実在の人物・団体・事件には一切関係あ りません。 

 という小説とその主人公が書く小説のフィクショナリティおよびリアリティが. 同時に強調されるということが起こっているのである。このような小説が書かれた一因. を. Fナショナル・ストーリー・プロジェクト』の経験に帰することは可能であろう。

 なお、この作品はフィクショナリティーであり、 実在の人物・団体・事件には一切関係ありません。www.

 少し考えた、というか、気にかかった程度なんですけど、「フィクショナリティ(fictionality)」っていうのはやっぱりおもしろい問題だな、って。これらの物語、人物、出来事がフィクションであることをどのように僕たちは知っていて、それが作品を読む

 だから書いていてもちっとも面白くなかったのだ。思い出して良かった。ちゃんとこの日記のフィクショナリティを意識すればまだまだ面白く感じられる筈。こんな基本的なこと、どうして見失っていたのかな。

 シンポジウム「仮構と反転 フィクショナリティと現代」 丸山圭三郎 「静的記号学と動的記号学中村雄二郎 「都市・劇場・表徴」 佐藤信夫 「類義表現のレトリック」 磯谷孝 「記号論の構想とその展開」 大室幹雄 「歴史の詩学への遠い覚書」

 文学部で『日本記号学会第28回大会 遍在するフィクショナリティー』を開催していたので興味本位で覗きに行った(本当の目当ては明日のシンポジウム)。 で…プログラムがぺらっぺらの同人誌みたいな(B5で10P)くせして1500円も取りよった。

 亀@渋研Xさんがそしてその後室井尚さんがブログで日本記号学会第28回大会「遍在するフィクショナリティ」終了というエントリを書き、これに対してシンポジウムに参加して室井尚さんから罵倒されたという千野帽子さん 

 時代を映す現代建築−ポスト・モダン都市の十一景 (回路図・丹下健三東京都庁新庁舎」 ナイトメア・フィリップ・スタルク「ユーネックス・ナニ・ナニ・ビル」 フィクショナリティ・ナイジェル・コーツ「小樽ホテル」 ジャパン・出江寛「東京竹葉亭」 

 そのフィクショナリティを、露呈させ批評する。諧謔と共に。 それは言語イメージを打ち破り、その外へ出ようとする意志だ。以上のような差異と. しての「私」とは、上述のように、言語的同一性に対する問題として現れる身体的な主.

 これはもとより、事実を構成することによって、「私小説」といえども、すでにフィクショナリティを獲得しているわけですから… ... メディアは、作品のフィクショナリティの保障を、積極的に行うべきです。 それは、「私小説」のモデルとおぼしき人々の

 初音ミクファンと職人による初音ミクTBS報道事件に対しての反撃開始! ミクも怒っています(`Д´)ノ!! なお、この作品はフィクショナリティーであり、実在の人物・団体・事件には一切関係ありません。

 をめぐるフィクショナリティ. 小田原銀座は老舗の多い歴史ある町だと言われる. ことが多い。そしてそれが経済的価値だとさえ見な. されつつある。しかしこの商家町の同一性は度重な. る人の移動、またそれにともなう生の様式の変化に

 独歩の「嘘を書かない」という考えは、あくまで小説のフィクショナリティを土台と したものであったのです。 たしかにその意味では前期自然主義の流れをくむ作家であって、そうした作風上の 区別で言えば、後期自然主義、一般に単に自然主義と言っている 

 そして、最後まで「2ちゃんねる」の顔も知らぬ人間たちに助けを求め続けるというフィクショナリティにある。 しかし、これは決してフィクションではない。 ネットでのコミュニケーションの楽しさを知っている人間。 あるいは、日に何十件も携帯メールを

 「住宅という場所で」と言う本を読んでいる。新しい本ではないが、おもしろいです。 宮脇壇が生活を追い求めた手詰まり感。リアル。隣接性。フィクショナリティ。建築…。 自分の中で、再確認したり再認識する必要がある時期なんだと思う。 

 しかし見過ごしてはならないのは、反射性住居の形式が持つ高度なフィクショナリティであると思います。この形式は、住宅の内部にありながら生活感や生活臭を決して表に見せない内部皮膜のデザインとして傑出しています。 住宅の中にいながら外部があり、

 フィクショナリティに富んだ光景→浮力を感じる(ジャイプールの天文台の観測装置). ・地上から離れた上方に生えた植物→大地か浮いたような感覚(ウダイプールの屋上の樹木). 集落の情景からは集落を作ってきた人々の間に偏在する、




「遍在するフィクショナリティ」終了.

 なお、この作品はフィクショナリティーであり、実在の人物・団体・事件には一切関係ありません。

 まあこのぐらいでわかろうっていうのが無理なのですが(笑)でも検索で出てくる言葉の断片をつなげて読んでいると、ちょうどラジオでザッピングをしながらいろいろな言葉がノイズの向こうから立ち現れてくるおもしろさがあるように感じて、ちょっとまとめてみました。


 リアリティとフィクショナリティが対になっていること。記号論および建築論、さらには舞踊論?や文学論で出てくる言葉であるらしいこと。ドキュメンタリーといえど虚構性から逃れられない、というような言葉の虚構性はやはりこのフィクショナリティーだろうなと思えること。
 このぐらいでしょうか、何となく頭に入ってきたところでは。


 あと、「なお、この作品はフィクショナリティーであり」という明らかな誤用が結構広まってきているかもしれないと感じました。