O岡先生
80年代の前半、私は浪人して予備校に行っていました。そこの講師で世界史のO岡先生という人がいて、結構面白い授業をする人でしたが、確か最初の授業の冒頭で
皆さんが来年大学に入れるか入れないか、何が一番影響していると思いますか?
というふうにしゃべり始めたのです(独特の早口で)。
それこそ四当五落的な努力論、精神論が頭に浮かんだのでしたが、O岡先生はあまり間をおかずに
それは国の予算です。
国がどれだけ教育関係にお金をまわすかで大学の入学定員が決まってくるんです。皆さんがどれだけ努力しても予算がゼロならば来年はどこの大学にも入れないんです。
なるほど、と思いました。凄く斬新な視点だと感じたのです。
努力とか根性とか以前に、そういう社会的・環境的制限によって自分たちの進路・人生が規定されてもいるということに、おそらくそこで初めてはっきりと気付かされたように憶えています。
まあこれは極論で、お決まりの「つかみ」だったのかもしれませんが、O岡先生の授業は(早口でマイクに口をつけすぎて聞き取り難かったのを除けば)とてもいろいろな視点で世界史を見直すもので、一年間ずっととても興味深いものでした。
実際に今では、たとえば国立大の授業料にしても国の予算で決定されるものではないのですが、補助金等の額で間接的に国が首根っこを押さえ続けているのは確かなことでしょう。昨日のエントリを書きながら、O岡先生のことを思い出したのはそういう絡みでした。
確か前期の講義が終る頃(つまりまた夏期講習でお金を払ってね、となる前ぐらい)に、O岡先生はある本を読んで何か書いてきたら見てあげる…というようなことを話されたと思います。もちろん予備校では宿題が課されるといったことは稀で、それも希望する人だけがボランタリーにということだったはずですが、少なからぬ人が「自分の書いたものにコメントをもらいたい」というように思い、そのタスクを仕上げて提出しました。もちろん私も。今となっては何をどう書いたのかについての記憶は一切ないのですが。
それでもなぜ今それを憶えているかといえば、そのタスクを書いて出した人(全員だったかどうかはあやふやです)が順番にO岡先生の控え室のデスクに呼ばれ、自分もそこに行ったことは鮮明に憶えているからです。
そこで口頭で書いたものについての感想とコメントをいただき、そしてO岡先生はおもむろに「あなたはこの本を読んだことがありますか」と一冊の新書を出してきました。読んだことがない旨をつげると、「じゃあこれあげますから読んでください」とその本をいただいたのです。
その本は岩波新書の、荒松雄『ヒンドゥー教とイスラム教』(黄版8)でした。
結局史学のほうには進むこともなかったのですが、この本が実は何となくその後の自分の専門分野の選択に影響していたのかもしれません。今この本を手に取りながら、改めて少し驚かされています。
受験科目でもない世界史*1の、一度しか直接にお話もできなかった先生ですが、少し言葉を交わしてこの本をいただいたおかげで、おそらく夏から冬にかけてのモチベーションも十分にいただけたはずです。
ポケットマネーで皆に新書ぐらいあげておられたのでしょうか。できれば自分はちょっと特別だったと思いたいのですが(笑)
それでも一つ心に刻んだのは、こうしたほんのちょっとのことで若い人(当時の自分)がやる気を出すことができるということでして、その後何年か自分でも予備校で教えることがあって、その時、O岡先生にいただいたものを今度は自分がこの人たちにあげたいなとそう思えたのでした。
うまくできたかどうかはわかりません。
でも、いまだにこのことは忘れられないエピソードの一つです。