バイアスと物怖じ

 lets_skepticさんの「信奉者は批判的思考を扱えないわけではない」ですが、

 心理学では、結論をもっともらしいと感じる意見は批判的思考にさらされにくく、結論がうさんくさいと感じる意見は批判的思考にさらされやすいというバイアスが確認されています。


 そのため、自分が結論に同意している場合は、たとえ結論に至る論理展開がおかしくとも批判的思考が働かず認めてしまう傾向になり、結論に同意できない場合は、論理展開がそれほどおかしくなくとも厳しく批判的に検討する傾向になります。このことにより、第一印象がうさんくさいものだった場合、真面目に検討を加えてもよりうさんくさいという印象を強めてしまうというアンバランスな傾向になります。

 「社会心理学」のことかなとちょっと思いました。フェスティンガーの認知的不協和理論とか。
 または次のロードの研究のことを言っておられるのかもしれません。

 まったく同じ情報を与えられた場合に、自分にとって都合の悪い情報に対しては、「信頼するに足らない情報である」という厳しい目で見てしまうという研究結果がある。社会心理学者のロード(C.C.Lord)たちの研究がそれである。彼らは、死刑を廃止すべきか存続すべきかという意見によって、被験者を二群に分けた。どちらの群の被験者にも、死刑が犯罪を防止する効果があるという調査報告と、そのような効果はないという調査報告の両方を読んでもらう。

 すると、被験者の考えはより中立的なものになるだろうか。実験の結果はまったく逆であった。被験者たちは、自分があらかじめもっている主張と反対の報告に対しては方法論的な欠点をいくつも指摘する一方、主張を支持する報告は良い研究であると評価する。最終的には、むしろ自分の主張をますます強めてしまったというのである。
(市川伸一『考えることの科学』中公新書、より)


 実際、こういうバイアスが避けられないのなら(上の引用で触れている死刑制度についてのものも含めて)ちゃんとした議論によって社会的問題に結論を出すというのがいかに困難なことかがわかります。


 また市川氏の本には次のような一節もありました。

…「権威ある人」の主張を受け入れることは帰納的な論証としても正しいことが、サモン(W.C.Salmon)の論理学の教科書に述べられている。

 XはPに関しては信頼すべき権威である
 XはPを主張する
 ∴Pは真である

 これは、次の論証と内容的に同等であるという。

 問題Sに関して、Xによって述べられた言明の大部分は真である。Pは問題Sに関して、Xによって述べられた言明である。したがって、Pは真である。

 要するに、統計的な三段論法という形式になっているというわけだ。

 これはフェスティンガーの社会的比較過程の理論にもつながってきますね。
 人は一般に自分の能力の高さや意見の妥当性を明確にしたいという欲求をもっていて、その(自分の)意見の正しさの根拠は、客観的な事実に基づく物理的真実性(physical reality)が得にくくなるほど、「みんながそう言っているから」という社会的真実性(social reality)に求めることになるというあれです。


 肯定的なブクマが多くついているものに否定的な意見が書き難い(決してできないわけではないのですが、心理的負担はある)というのはこの裏返しの心情によるものかもしれません。
 よほど信念があるか、脊髄反射か、もしくは自分の意見に同調してくれる人が多くいるはずだという確信がなければ、そういうのは難しいことなんだろうと思います。