保科百助『よいかゝを欲しな百首け』
Wikipediaでも紹介されている保科百助(1868−1911)という方がいます。慶応四年長野で生まれた教育者であり鉱物学者。
長野県師範を卒業後、県内で教師・校長など歴任のかたわら鉱物標本の採取で中央にも名が聞えた方だったといいます。
1899年(明治32年)、上水内郡の大豆島尋常高等小学校校長に就任したが、被差別部落の生徒とその他の生徒を同じ教室で学ばせるなど部落差別撤廃を実践したことが村民の不興を買い、翌年に北佐久郡へ配置転換させられる。 1900年(明治33年)、蓼科高等小学校・蓼科実業補修学校(現・長野県蓼科高等学校)の設立を手土産とし、両校の校長に就任する。翌年辞任。 1903年(明治36年)、鉱物標本を皇太子(後の大正天皇)に献納する。同年、貧しさから進学できなかった人間を主に対象とした私塾・保科塾を開塾。半年で140人余りの塾生を抱えるほど発展したが、1906年(明治39年)、突然に閉鎖。 1907年(明治40年)、衆議院議員補欠選挙に立候補するが大差で落選。翌1908年(明治41年)も総選挙に立候補し、やはり落選。 1909年(明治42年)、「にぎりぎん式教育論」を提唱。「テストを重視するのではなく、例えば地学の授業であれば生徒を実際の鉱物に触れさせるなどし、自主的に考えさせるべきである。教師はその間握り金玉(にぎりぎんたま)でもしていればよい」という趣旨であったが、あまり受け入れられなかった。
氏の人生行路をいくつかWikipediaから抜粋しましたが、何とも破天荒でかつ良い先生だったことが窺われます。ただし、順調に世に受け容れられたわけではなさそうなのが残念。
またこの保科氏は奇人としても名高く、傍若無人な毒舌家で、1904年(明治37年)読売新聞が募集した「奇人百種」では一位に輝いています。
Wikipediaでは書名だけの紹介ですが、氏の自費出版した狂歌集『よいかゝを欲しな百首け』を紀田順一郎氏が紹介していたことがあります。この本の出版は1906年(明治39年)、氏が38歳の時です。
自分を洒落のめし、奥さんが欲しいということだけで百首の狂歌を詠まれたものでした。
芸者をば 買ふ度毎に 思ふかな あいきやうのよき かゝをほしなと
これが典型の一首、というかこういうのばかりなのですが、何かにつけてお嫁さん(かかあ)が欲しいな(>ここは自分の名前の保科に掛けている)と詠むばかりの本であったそうで。
年取つて みれば無暗に 思ふかな 此世でどうか かゝをほしなと
両親の 位牌を見ては 思ふかな 線香立つる かゝをほしなと
当時の38歳(数えで40歳)といえばかなり年寄りと自覚するあたりであったかもしれません。
ふんどしを 洗ふ度毎に 思ふかな 下女を兼務の かゝをほしなと
なんだか切実です。わがままと見るか、メイド萌えのはしりと見るか。
長居する 客来るたびに 思ふかな 無愛想なる かゝをほしなと
これはどうなのでしょう、客の長居除けのためだけに嫁が欲しいと言っているようです。こうなるともう「嫁」は万能の戦士みたいなもので、とにかく今の不満はすべて「嫁」で解決したい(できる)と思われているようにも見えます。
ただこれだけ率直にてらいなくうたわれると、案外毒気も抜けて笑えてくる感じもありますね。
女学校 見る度毎に 思ふかな えび茶式部を かゝにほしなと
後家さんを 見る度毎に 思ふかな としまなれども かゝにほしなと
妾宅を 見る度毎に 思ふかな 一人でよいが かゝをほしなと
征露史を よむたび毎に 思ふかな ジンギスカンを かゝにほしなと
最後はもう何でもよいのかと…。
「保科を主人公にした小説として、横田順彌『五無斎先生探偵帳』(インターメディア出版、2000年)がある」とありましたので、できれば入手したいなあと考えているところです。