興味深い議論の最中に口出しするのも不粋なのですが

 これだけはちょっと…
 稲葉振一郎氏@インタラクティヴ読書ノート別館の別館の「■[論点]「『はだかの王様の経済学』は戦慄すべき本である」メモ」の次の部分

 論理的に言えばこの違いは、仏教とか「悟り」にひきつけるとわかりやすい(?)。

 たとえば「解脱」という概念がある。非常におおざっぱに「この世のあらゆる苦しみから自由になること」「絶対に安全になること」ととりあえず解しておこう。これを仏教的、というと不正確なのだろう。仏教の本来の教え、おそらくは仏陀が考えていたこと、説こうとしたことはむしろこの「解脱」などということはできない、ということであり、いわゆる「悟り」とは「解脱」の反対概念、「解脱」の不可能性を知ること、である。となると「解脱」を目指して修行することはまさに「偽の神に帰依すること」に他ならない。

(拙著『オタクの遺伝子』太田出版、より引用)

 ここに「解脱」とか「悟り」とかいう語を借用されているからわけのわからないことに…*1


 「解脱」は確かに広辞苑なんかで「現世の苦悩から解放されて絶対自由の境地に達すること」なんて書いてありますが、これはイコール「涅槃に入ること」で「(死んで)輪廻の輪から解放されること」によって成就するもののはず。つまり生きながら解脱はできるものじゃないんですね。
 (と言いますか、解脱=輪廻から抜け出ること、としてもよいかと思います)
 (さらに言えば、悟りが精神的な自由を獲得するものだとして、解脱は精神的にも物質的にも(灰になる)霊魂的にも(生まれ変わらない)全面的に自由を獲得するということなのです。ですから、現世で「解脱者」を名乗る者がいても、それはせいぜいが「解脱予定者」ということでしかありません〜追記)
 悟りを開くということによって執着から離れ、そして解脱へ向かうというのはまさに仏陀が考えていたことだと考えられます。インドでは「業」「輪廻」「解脱」の思想が仏教に先んじて成立していました。輪廻という考え方(哲学)は所与のものであって、仏陀は悟ることによってその永遠に生まれ変わり死に変わりする輪廻からの脱出=解脱ができると説いた方だったのです。

 釈迦の教えは、人間の生きるべき道を明らかにしたのであり、この道をダルマ(dharma 法)と呼んだ。人生の苦しみから脱し、迷いの生存(輪廻)を断ち切って自由の境地に至る。それが解脱であって、涅槃という。そのために、その関係性(縁起)を明らかにしようとした。その実践として、道徳的に悪い行為をせず、生活を清める。それは八正道の実践であり、中道のことでもある。
(岩波『仏教辞典』「釈迦」の項 下線は引用者)

 『オタクの遺伝子』に書かれていることの何がおかしいかといえば、「解脱」が悟りによって生きながら実現できるもののように書かれていることじゃないかと思います。ですから


 「むしろこの「解脱」などということはできない、ということであり、いわゆる「悟り」とは「解脱」の反対概念、「解脱」の不可能性を知ること、である」


 というような妙な結論が出てしまっているのでしょう。
 現世では、生きているうちはもとから「解脱」状態になることはできないのです。
 その一点の理解が間違っているので「悟りとは解脱の反対概念」なんてことになってしまったのだと思えます。


 議論の本筋とは関係ありませんのでどうしようかと思いましたが、脊髄反射で書きました。

*1:いえ、イイタイコトはわかる気はするんですが…