いたわりと差別

 前の日曜は知り合いの先生のお宅へお中元を持って訪問しました。持って行ったのはカボチャが二個(化粧箱入り)とビールでした。こういうのは直接の利害関係が無くなってからの方がやり易いですし、実際私はこの方以外には中元も歳暮も贈っておりません。昔うちの犬も預かっていただいたりしていたお宅ですし、うちのわんこが見つけたネコの里親さんでもあります。(むしろこの方面で親しいといったほうが…)
 この方は今はもう非常勤一つを除いて退職していらっしゃるのですが、以前はなかなかにエライ先生でした。御著書は5、6冊と多くはありません。でも業界では顔も広く、二つの大学の名誉教授号をお持ちです。(本人は一銭にもならんとぼやいておられますけど)


 さてこの先生、6月に奥様がガンの疑い有りと診断されたことであちこちの病院をお二人で回られました。結局その疑いは晴れて万歳といったところでしたが、その過程である病院の待合で長らく待たされたことがあったそうです。11時ごろに画像を取って、14時ごろに診察といったものだったとのこと。
 その診察室に呼ばれたとき、若い女医さんが


 「おじいちゃん、お腹空いたでしょう〜」
というように声をかけてくれたそうで…。


 「この頃の医者は丁寧だね」
 とかなんとかおっしゃっていましたが、(すごく厳しくて恐かった)先生のお元気な時分を知る者には全くトンでもないと思えるようなことで、先生も本当に丸くなられた…と思った次第です。(これは知り合いの間では確実に伝説的な笑い話になるでしょう)

 これは、差別だろうか?
 もちろん、差別だ。
 動機は、気を使っているということかもしれない。
 が、差別をしている側の人間は、たいていの場合、気を使っているつもりなのだ。
 私の知っているある年寄りは、病院に行くたび腹を立てている。看護婦たちが、まるで子供に話しかけるように話すからだ。彼によれば、足が悪いのは確かだが、だからって、アタマまで弱っていると決めてかかられてはかなわないというのだ。
 確かに、われわれは、年寄りや身体の不自由な人々や高卒の人に対して、奇妙な気の使い方をしている。
 というよりもわれわれが「いたわり」や「思いやり」だと思っているものは、自分よりも劣っていると判断した人々に対するもってまわった拒絶の表明なのかもしれない。
 (小田嶋隆『人はなぜ学歴にこだわるのか』光文社、知恵の森文庫)

 この記述が私の頭の隅っこにありました。