変な責任の話

 群馬県桐生市での高一男子死亡事件で、男子生徒が通っていた、そして傷害致死で逮捕された男(15)がかつて通っていた桐生第一高校の野球部関係者のインタビューがありました。
 もちろん今回の事件の被害者も加害者も野球部に関わっていたという情報はないのですが、その関係者いわく(今現在予選中の高校野球への今後の参加について)「高野連のご指示の通りにいたしたいと思います」。
 インタビュワーたちも、インタビューイのその人も、頭の中には「不祥事」とかいう言葉がぐるぐる廻っていたとうすうす察せられ、とても違和感がありました。今回の事件でおよそ関係の無い野球部の活動(自粛)なんかが何故取り沙汰されてしまうのでしょう?


 野球部の生徒たちへの指導がどれだけ行き届いていても、また野球部の部員たちがどれだけ品行方正であったとしても、今回の事件はそれとは全く違った次元で起きてしまったでしょうし野球部員にはそれを押し留めることはできなかったものと思われます(少なくとも現時点の情報では)。
 それでもなお「連帯責任」とやらが頭に浮かんでしまうとは、どれだけ今の高校野球関係者が変な感覚に陥ってしまっているかという証のように見えました。特に記者たちが話をそこに向けること自体、彼らのちょっと歪んだ世界観が露見しているようで少し不快になります。


 いい加減「連帯責任」を取ることによって正義が果されるといった勘違いは止めて欲しいものです。
 不作為の責任を問うという意味での連帯責任みたいなものは確かにあるとは思います。たとえば学校で「クラスが騒がしいから」罰を受ける場合、大勢の中の一人とはいえ自分がそこにいたのでしたらぎりぎり責任を問う(問われる)ということはあるでしょう。ただこれは連帯責任というより(たとえ自分がうるさくしていたのではないとしても)騒ぎを放置した分だけ自分にも責任があるかもしれないと考えられるからです。ただ、自分がたとえばその時保健室にいた場合など、クラスの連帯責任の罰は受け入れられるものではないと思います。それを知ることも止めることもできなかった事に対して、連帯の一言、立場というものだけで責任を問われるのには抵抗が大きいからです。


 責任とは当事者が、避けられれば避けられたあることを(自分の意志によって、もしくは過失によって)犯してしまった時に発生するのではないかということは何度も書いてきました。
 これ以外の責任は、本人が自分の意志で受け入れるのでない限り周囲は騒ぐべきではないと思っています。メディアなどがむやみに「連帯責任」的なものでさまざまに煽るのは、子供への責任といったものへの理解を混乱させる基ではないでしょうか。
 また高野連が妙なことを言い出さないよう願って止みません。