嫉妬の時代

 岸田秀が書いた『嫉妬の時代』(飛鳥新社)。これが出版されたのは昭和62(1987)年で、もう20年以上前になります。この本で岸田は平等主義に醸成された嫉妬の感情が日本を支配しているとして、「三浦和義事件」「戸塚ヨットスクール」「豊田商事事件」「積木くずし>親子関係崩壊」「鹿川くんへのいじめ」「写真週刊誌のモラル」など当時騒がれた事件・話題などを実例にして「嫉妬」というものを語りました。
 彼が定義した嫉妬とは、

 …ぼくが所有すべきもの、所有する権利のあるもの、所有して当然なもの、ぼくにこそ値するものを、ぼくが所有しておらず、あるいは、ぼくの所有が脅かされており、そして、第三者がそれを不当に所有していると思われる場合、または少なくとも、所有しているのではないかと疑われる場合、ぼくがその第三者に抱く憎しみの感情…

 というものです。「嫉妬について語るとすれば…ぼくの感情について語るしかありません」として岸田が提示したこの定義は、現在もなお嫉妬の時代が続いているのではないかと暗示するもののようにも思われます。
 さすがに彼が挙げた上記諸事件はアップトゥーデイトに説得力をもって今働くとは言い難いですが、昨今大いに話題として採り上げられている「格差」という言葉は、もしかしたらこの「嫉妬の感情」を巧みに掬い上げているからこそ人口に膾炙しているのではないかと感じられたのでした。

 われわれは、他人がすばらしいものをもっているからといって、必ずしも羨望するわけではありません。ぼくはスポーツ選手がオリンピックで金メダルを取っても羨望しません。さきほども言ったように、昔の人民は、貴族が贅沢な暮らしをしていても羨望しなかったでしょう。人民がそれを羨望しはじめたとき、すでに革命の火種が灯されていたわけです。羨望しはじめたということは、人民が、本来なら自分たちの所有であるべきものを貴族に不当に奪われている、と考えはじめたということだからです*1
(同書、p.204)

 公務員バッシングのような言説がなかなか納まらないのも、これは従来の政治家叩き・官僚叩きの延長で、タックス・ペイヤーとしての名分から「自分たちのお金が不当に奪われているのではないか」という感情が人々に働いているからではないでしょうか。
 そして格差論ですが、そこに社会システムの不備に対する正当な指摘(と思われるもの)が交じっているにせよ、その広範に語られるすべてが社会問題を語るだけのものとは思えません。むしろそういうものだけならば流行のように声高に格差が言われることにはならないのではないでしょうか。社会の仕組みを冷静に考える人たちというのがそれほど多いものとは思われないということもありますし、そういう話のテクニカルな側面を多くの人たちが正しくキャッチアップするのも難しいように思われるからです*2
 それは「不正がある」と煽る人がいて、それに乗って自分の現在の状況を「不当に貶められたもの」だと煽られ怒る多数の人々がいて、そこではじめて流行のように人々の口にのぼり、多くの人々が自分に関係するものじゃないかと口にしはじめるそうした思潮の一つだとも感じられます。


 「勝ち組」だとか「負け組」だとかいう言葉に浮き足立つ人がいなければ、あるいはこうした状況にはならなかったかもしれません。「希望格差社会」といった言葉に先立つこうしたメディアの流行語によって「嫉妬心」に火をつけられ、さらに長引く不況で経済的に困っていた人々が実際に多くいて、そしてその困窮が「勝ち組(といった人たち)による不当な簒奪」がどこかにあって引き起こされたものではないかという疑念が高まってこそ、今のような格差論全盛の状況ができたのではないかと…。


 岸田はこの「嫉妬心」を「人間のもち得るもっとも基本的な感情の一つ」と語ります。ですからこの本によって「嫉妬心から離れる」といったような処方箋は書かれていません。また、彼独自の「黒船来航−開国によって日本は分裂状態にある」などの持論もこの「嫉妬の時代」につなげるように語られています。そして彼が「嫉妬」について整合的に語れば語るだけ、現在だけが嫉妬の時代と言い得るのだろうかという疑問は読者に湧いてくることにもなっています。
 こういうことがありますので、この本は未読の方々に無条件にお薦めできるものとはちょっといい難いです。
 それでも、今格差というあたりを考えるにあたって、この「嫉妬心」というファクターを考慮に入れるということは重要ではないかと思わせてくれる何かがここにはあり、たまたまですが思い出して読み返したのを奇貨としてちょっとメモ書き程度に書いてみようと思ったのでした。

追記「平等主義」についての記述

 平等主義にもプラスの面はたしかにあるんですが…。
 生まれたときにすでに身分が決っていて、興行師の子は興行師になるしかないという社会にも問題はありますが、平等ということが実現不可能ではあるが、めざすべき理想として設定されているのではなくて、不平等である現実を無視する、不平等を罪悪視するという形で平等主義が出てくると、いろいろマイナスが出てきます。
 人間は現実には決して平等ではありません。それなのに、たとえばすべての人間は能力において平等である、なんてことが建前になると、さきほども言ったように、能力の劣る者にとって世界は地獄になります。
 能力の劣る者は、努力さえすればできるんだという嘘を信じ込まされてムダな努力を強いられ、そしてやはりできないので軽蔑され、そのうえ怠け者だと思われて、さんざんです。平等主義のため、能力が劣る者は、世界のなかで自分の居場所がないのです。上のほうへゆくと居場所がありそうな気がするんだけど、そこへはゆけません。
 不平等が罪悪視されていなかった時代は、能力が劣る者は劣る者でそれなりの居場所があったから、安定していたので、能力の優れた者を素直に尊敬するゆとりがあったわけです。自分がある点で劣っていることを認めても、自我の安定は揺るがなかったわけですから。いや、そもそも他人と自分をあまり比較しませんでした。
 しかし、今や人を尊敬することは、自分の屈辱的敗北を認めることになり、自我の安定を脅かすので、尊敬を感じても抑圧するのです。嫉妬というのは抑圧された尊敬ですから、人を素直に尊敬できない人ほど、嫉妬の地獄に落ちることになります。
 つまり、能力はみんな平等だということになっているので、凡人が本来ならもたなくていい挫折感をもち、天才に嫉妬するんです。天才に嫉妬した凡人には、嫉妬の地獄からの出口はありません。平等主義が、人々の嫉妬心を猛り狂わせたというのは事実です。落ちこぼれもつくったし。
(同書、pp.256-257)

 さすがに最後のあたりの記述は言い過ぎかと思えるのですが、「不平等である現実を無視する、不平等を罪悪視するという形で平等主義が出てくると、いろいろマイナスが」というところはかなり頷かせてくれるところだと思いました。

*1:岸田は「当人が体験する主観的感情として嫉妬と羨望は本質的区別がない」という立場で語っています

*2:たとえばリフレ派の話とか