井伊直弼の「独座観念」

 昨日の『篤姫』ではとうとう井伊掃部頭直弼が殺されてしまいました。そしてそれはめずらしく井伊の茶人としての側面を描く演出で興味深く拝見。少し茶席の会話が妙ではありましたが…


 井伊掃部頭は幕末一流の茶人で「近代茶道のさきがけ」とも言われる方。茶名は宗観とおっしゃいます。ナレーションで奈良岡朋子さんが

 今日のこの一期一会が、再び還らぬことを観念する。
 井伊さまが至った茶の極意でした。

 と語ったように、著した茶書に『茶湯一会集』もあり、「一期一会」という言葉を茶道に根付かせた方でした。
 私もふとしたことでこれを知り、燈影舎撰書『一期一会 井伊直弼茶書』*1を入手して読ませていただきました。
 以前にも紹介したことがありましたが*2、あらためて名高い「独座観念」の原文とあわせて訳を紹介いたしたいと思います。

独座観念


一 主客とも餘情残心を催し、退出の挨拶終れば、客も、露地を出るに高声に咄さず、静にあと見かへり出行ば、亭主は猶更のこと、客の見へざるまでも見送る也。扨、中潜り・猿戸、その外、戸障子など、早々〆立などいたすは、不興千万、一日の饗応も無になる事なれば、決て、客の帰路見えずとも、取かた付、急ぐべからず。いかにも心静に茶席に立もどり、此時、にじり上りより這入、炉前に独座して、今暫く御咄も有べきに、もはや何方まで可被参哉、今日、一期一会済て、ふたゝびかへらざる事を観念し、或は独服をもいたす事、是、一会極意の習なり。此時、寂莫として、打語ふものとては、釜一口のみにして、外に物なし。誠に自得せざればいたりがたき境界なり。


 主客とも余情残心を催し、退出の挨拶が終って、客も露地を出るときに、声高に話さず、静かにあとを見返りながら出て行くと、亭主はいうまでもなく、客が見えなくなるまで見送るものである。そのあと、中潜り、猿戸、その外戸障子など、早々と閉めてしまうなどというのは、不興この上ない。一日の饗応も無になってしまうから、けっして客の帰路は見えなくとも、取り片づけてはいけない。いかにも心静かに茶席に立ちもどり、躙上りより這い入り、炉前に独座して、今しばらく話されてゆかれたらよいのに、今頃はどこまで参られただろうかと、今日の一期一会が済んで、再びかえることのないことを観念し、あるいは独服をすること、これこそ一会の極意である。この時寂莫として、打語らうものとしては、釜一口のみで、外になにもない。これこそ誠に自得することがなければ至りがたい境界である。
 (井伊直弼『茶湯一会集』より)

 素人考えではありますが、茶事とはコミュニケーションの謂だと思います。そしてそこで問われるコミュニケーション能力とは、相手のことを思い遣るという一事に過ぎるものではないとも考えています。
 互いに思い遣りを尽くすための心構えとして一期一会が強調されるのですし、作法や道具は重要ではあるとはいえ主ではないものと位置づけられるはず、とも。
 こうした視点からすれば、昨日の『篤姫』での篤姫天璋院)と掃部頭との茶席の会話は、ちょうどハリウッド映画で奇妙な日本文化の描写が行なわれるごとく奇妙に作られたものという感がありました。まあドラマとしての演出ですから、ことごとしくは触れないでおきますが。


 コミュニケーション能力云々についてはネットでもたびたび話題になります。しかしそれはどこか「技術」として「いかに自分の利に適うか」という点を中心に語られているようにも思えます。ここは一つそれは放下して、思い遣りという観点から見直してみると、また何か気付かれることも多いのではないかと愚考。
 なかなか思い通りにならない自分の心ですし、難しいものだとは思いますが…

*1:この本の標題は西谷啓治氏の提案だったそうです。

*2:昨年の12月1日の記事。この時はまだ本書は入手していませんでした。