私じゃなくても良かったんでしょ?

 「私じゃなくても良かったんでしょ?」みたいな言い方、あるいは「ぼくじゃなくても良かったんだろ?」みたいな言い方、これはある程度付き合ってから喧嘩や別れ話の時に出される言葉です。
 似たような言葉は門前払いの時にも使われて、「何でぼくなの?」とか「何で私なわけ?誰でもいいんでしょ」とか何とか。


 これらは大いに卑怯な言い方です。だって勝てるはずですから。
 正直「あなた」じゃなくても良かったんです。
 偶然ですと、たまたまのきっかけから成長した思い込みですとしか言えないでしょう、実のところは。


 まあ痴話喧嘩の時に持ち出されたんだったら、何がしかの理由を(でっちあげてでも)言って欲しいという可能性もありますが、個人的には一気に気持ちが醒める言葉です。


 たとえば「幼馴染」とかでしたら一見理由が立ちそうにも思えますが、結局それはたまたま偶然近くに存在していたというだけで、そういうたまたまの中の一人が替えが利かないものだったとは言えないはず。
 血縁以外の関わりなんて必然性があるようでないものです。


 もちろん必然性がなければ付き合えない、というのはおかしな話です。そこにごまかしがあります。
 逆に功利的な必然性(条件)を見つけて付き合うというのがどういう行為と思われるかを考えてみればわかります。


 はじめは偶然かもしれない、気紛れかもしれない関係が、一緒に時を過ごすことで変容する。それこそ本当の関係であって、そこに殊更「偶然性」をもってきて「誰でもいいんじゃないか」とするのは、ここから先の関係を深くしたくないがための言い訳としか取れません。(あるいは拒絶する自分への言い訳も含むかもしれませんね。誰も自分をひどい人とは思いたくないものですから)

「…〈飼いならす〉って、それ、なんのことだい?」
「よく忘れられてることだがね。〈仲よくなる〉っていうことさ」
「仲よくなる?」
「うん、そうだとも。おれの目から見ると、あんたは、まだ、いまじゃ、ほかの十万もの男の子と、べつに変わりない男の子なのさ。だから、おれは、あんたがいなくたっていいんだ。あんたもやっぱり、おれがいなくたっていいんだ。あんたの目から見ると、おれは、十万ものキツネとおんなじなんだ。だけど、あんたが、おれを飼いならすと、おれたちは、もう、おたがいに、はなれちゃいられなくなるよ。あんたは、おれにとって、この世でたったひとりのひとりになるし、おれは、あんたにとって、かけがえのないものになるんだよ……」と、キツネがいいました。
サン=テグジュペリ星の王子さま内藤濯訳)*1

*1:幼馴染はこの〈飼いならす〉ことを先行して持つところに有利なところを持ちますが、決してそれは絶対の優位ではなく、往々にして後から仲良くなった人に負けます。これもまた偶機によるのですが。