It's just a movie

 aurelianoさん@ハックルベリーに会いに行く
 映画の見方における「正解」について
 ある作品と出会うにあたって(映画に限らずですが)作者の意図を汲まなければならない、という見方は確かに不自由で、そればかり考えるというのはナンセンスです。そこに同意はするものの、「(映画を見る姿勢は)虚心坦懐に見るということ」が「正解」とまで言われると、そんな難しいことでもないのに…とつぶやかざるを得ません。


 感想に正解がないのと同様に、見る姿勢にだって正解などありません。たかが映画じゃないですか。個人的事情で感情移入して見る姿勢でも、蘊蓄を肴に期待しながら見る姿勢でも、どちらもたいして変わりはしません。
 どちらでも楽しめれば正解。そうじゃなかったら残念でしたというだけのことです。


 虚心坦懐に観るのぢゃ
 映画と己が一対一で向き合う
 さすれば自ずから観えてくるものがあろうぞ…


 という老師がいるかもしれないという想像はギャグっぽくて面白いですが、虚心になるというのがどれだけ難しいかを考えれば、そういう人に出会ったとしても自分は敢えてそんな映画鑑賞「道」には入らないでごめんなさいで逃げます。
 「道」じゃなければ「作法」でしょうか。いずれにせよそれは、一つのくびきから逃れようとして他のくびきにはまってしまうだけのことに思えます。


 他の人に影響された感想は自分の純粋な感想ではないというナイーブな思い込みは、自分は自分だけで作ってきた、という有り得ない仮定で作られたフィクションです。
 その日見た「批評」じゃなくても、一週間前に本で読んだ別の知識、一月に友人と話したこと、一年前の夏に自分で経験したもの…、いろいろなことが影響して自分(の考え)はできています。
 それらをひとしなみに「排除」して「虚心坦懐」になることなど無理です。


 あるいは「その映画についての批評だけ」排除すればいいということをお考えでしょうか? それはあってもよいし、なくてもよいもののレベルにしか思えません。そしてそれらはもしいやならばその映画を見る前に自分で触れないようにすればいいというレベルのものでもあります。それがいやな人もいれば、そういうのが楽しみと思う人もいてよいんじゃないですか?
 予断なしで見るのもよし、予断込みで面白がるのもよし、どちらにせよいくばくかのお金と引き換えに何がしかのものが得られるんです(場合によってはつまんなくて怒りしかおぼえないかもしれませんが)。

 もう一つ、作り手の意図や思いを汲み取るのが「不正解」だという理由は、「作り手というのは、何も考えてない場合が多い」というのがあります。また、よしんば考えていたとしても、作品というのは、そうした作り手の意図や思惑を越えてほとんど自律的に成立していくものですから、それを斟酌するのは無意味だということもあります。

 引き合いに野坂氏のエピソードを出されていますが、小説と違って制作費が膨大な映画が「何も考えていない」で作られる場合はほとんど有り得ないはず*1


 実際、少し半可通ぶったような批評がかった感想、殊更作者性について考えているものなど、ネット時代に入ってから増えたのは事実でしょう。それがお嫌いなのかもしれませんね。でもそれだって玉石混交で、案外面白く「批評」「新たな視点の提示」になっているものもありますし、そういうのに出会えたら私は嬉しくなります。
 そしてまたこういうものも、その映画を見る前に避けようと思えば避けられるものに過ぎないでしょう。誰も無理に押し付けてきたりはしませんから。


 ここでどうして「正解」とか「不正解」とかいう言葉を持ち出されるのか良くわかりません。正解も不正解もないだろうというのが素直な気持ちです。「作者の意図を捉えなければならない」というドグマの否定は、決して「虚心坦懐に観るのが正解」ということじゃないんですよ。

*1:思いつきで書いた企画書。さらにはその企画書を全く無視した現場、というのは本当にあるかもしれませんが。