年収を聞くこと

 現代アメリカ事情が書かれたもので、彼の地では多様な価値観が称揚されるため(逆に言えば否定してはいけないことになっているため)、人と人を比べるという局面において、結局年収だけが唯一の尺度となってしまった…というような記事を読んだことがあります*1
 思いつきの域をでない社会論というもの多いですから注意は必要ですが、何となくありそうと思ってしまいました。拝金主義から来たものじゃなくて、ポリティカルな正しさが追求され相対的な尺度が使えなくなった挙句、とうとう人は「客観的な年収の額」でしか他の人の人となりを憶測する基準が持てなくなった…。皮肉めいて出来過ぎのところもありますが、案外あの社会の一面を描けているのかもしれません。
 


 他人の年収を聞くことが触法する社会は無いでしょう。ならば年収を聞くということの是非は、マナー・嗜みのレベルにあるはずです。そしてそれを聞かれて不快に思うかどうかということは、それが自分というものをどの程度価値付けるものであるかについての「自分」と「周囲」の価値観に関わってくることだと思われます。


 極端な話、年収の多寡がその人の人となりを全く表さないものであるという信念があれば、年収を誰かに聞かれるのも誰に聞くのも問題がないことでしょう。そこまでは難しいにせよ、年収以外の尺度で自分なり特定の人のことが価値付けられている(判断できている)場合でも、聞いたり聞かれたりにそれほど拘りは出てこないものだと思います。
 びんぼな院生をやっていた時は、むしろ金の無さをネタにすることが周囲ではよく見られましたし、貯蓄を考えなくていいなら年収200万以下でも結構暮らせていたと思います(ただし住居費が安い地方の話ですが)。あてにならない将来が、それでも曲がりなりにもあると思えたからそんな具合に暮らせたのでしょうか。年収を気にするとか同い年の人と比べるとかすれば、それはもう惨憺たるものだったはずです。私が準常勤の職を得て年収がそのレベルを超えたのは30代半ばに近づいたあたりです*2



 さて年収を聞く聞かないが問題になるのは、それほどよく知らない者どうしの間で、「自分と相手の双方が」年収である程度人を値踏みする(はず)と思えてしまったシチュエーションでしょう。
 (社会的に)その値踏みの機能が多少なりとあると思われて、かつそれを表立って言うとはしたないと認識されるという点では「学歴」とも似たようなものでしょうか。
 「一つだけの、あなたの尺度で私を判断しないでほしい」というのは正当な要求です。しかしながらこのあたりが顕在化するとき、実は自分の気持ちの中に自分でも年収の多寡で人を値踏みするところが存在してしまっている、というのが問題を複雑にさせているのではないでしょうか?
 気にする人も共犯関係にあります。いえ、もしかしたら気にする人の単独犯(>自分だけ引け目を感じて気にしてしまっている)という場合だってあるでしょう。実際、あまりよく知らない人がどれだけの年収をどのくらいに値踏みするかなんてわからないはずだからです。
 つまりそれはかなりの部分が自分の感覚の投影になっているということです。そしてその感覚とはすなわち、年収の少ない人に向ける「自分の目」なのです。
 もちろん様々な情報から「相場」みたいなものを聞くときもあるでしょうが、それが本当に通り相場なのか、そして何より目の前の人がその相場で値踏みしているのかどうかなんてわからないことなんです。


 不躾に年収を聞くという行為がマナー違反であるかどうかについては、社会がどうあるかに大きく関わることかもしれません。でも、年収を恥じてしまったり相手が自分を笑うように思えたりするその背後には、自分の中の偏見が大きくあるということは無視できないことでしょう。
 それは共犯だからこそ一方的に相手を責めるのが難しい、そしてややこしくもどこか自虐の皮肉が見え隠れするような、そんな微妙なものなのではないでしょうか。

*1:比べなければいい、と心構えを持つというような単純なことで解決になるとは思えません

*2:一人と一匹暮らしだったからできた、というのももちろんあります。