求められるパフォーマンス

 東京工芸大の大島武氏は大島渚氏のご子息ですが、氏独自のパフォーマンス論で講演などに引っ張りだこだそうです。単純に言えば教育の場で意識してパフォーマンスする、講義をプレゼンテーションと考える…といったことを氏は広められていて、少子化だの質がどうだのと従来とは違ったものが求められている(と危機感を感じている)各所の教育現場から呼ばれているのだそうです。現場も必死ですね。
 それだけでなく、山形大あたりの「アンケートで不評だった講義」に対する専門のアドバイザーとしても働かれているとのこと。なんでも山形大では「研究しかできない先生はいらない。山大はきちんとした授業ができる人材を求めている。研究だけしたい先生は、研究所なり東北大に行ってくれ」というポリシーになっているそうで、学生のアンケートに応える一環として大島氏の力を借りているらしいです。


 いろいろ賛否もありそうですが、大島氏はこんなことも言っておられます。

 「その分野を徹底的に研究している人こそ、よい教育者になれる」という考え方もあるでしょう。しかし、私は少なくとも以下の1点において、研究と教育はまったく逆のアプローチになると思っています。
 研究者にとって大切なのは、あらゆる考え方・可能性を検討することです。一方、教育者は、(いろいろな考えを踏まえたうえで、それらに順列をつけ)「これが正しい!」と教えることが求められます。
 私が教員に転じた1年目の授業がうまくいかなかった原因は主にここにありました。情報社会の諸問題について「こういう考え方もある」「一方でこういう考え方もある」とやりすぎたのです。学生側からすると、どれか1個にしてほしいというのが本音。大学院レベルならいざ知らず、一般の高等教育では教員サイドで教える内容を整理して、結論を一つに絞って言い切ることが大切でしょう。諸事明快であることは、教師の大切な素養の一つです。
 (大島武「よい教師を演じよう」看護展望.vol.32 no.4. 2007.3)

 断言を求められているときには断言で応じる、というのは何も教職にだけ求められることではなく、まさにここで大島氏が「将来のビジョンを語る人」として引っ張りだこなのもその変奏の一つでしょう。占い師や予言者にも断定が求められるものなのです。


 振り返ってブログ界隈を覗いても、「断定調」で一定の「ファン」を掴んでいる方々が見受けられます。あれは「言い切って欲しい。断定して欲しい」という読者側のニーズに応えているから人気があるんでしょうね。
 真似しようとしても自分には真似のなかなかできないものです。私が書いているものなど「〜思う」だの「〜かもしれない」のオンパレードで、言ってみれば理想の教職タイプでは全然なく、どこかの発表会や研究会でああでもないこうでもないと試論を出したり引っ込めたりしているタイプ。よく言えば研究者タイプの端っことも言えなくもなさそうですが、よくある「つぶやき」型の一つでしかないともいえそうです。ちょっとどう転んでも予言者にはなれそうもないという感じで…*1

*1:一度、「思う。考える。ばっかりの奴」みたいな陰口(笑)があって、無理して調子を変えてみようと試みたこともあったり…。でもうまくいくものではありませんでした。スタイルを変えても得るものもなさそうですし。