自己責任論

 自己責任論を問題視する言葉もありますが、おそらく個人がすべての責任を常に免れているとまで言っている人はいないわけで、結局は「どこまでを個人の責任とするか」の範囲が人によって違う(違って感じられている)ということが議論を呼ぶのでしょう。
 批判される自己責任論というものは「何でもかんでも自己責任」にしている(そう強弁して自らの責任を免れようとしている)誰かに対してのものであろうと思います。
 ところがこの捉え方にしてもなかなか一致した見解が取りづらいところがありまして、たいてい「個人の責任ということにして押し付けている」という側と「社会(云々)の所為にして個人の責任から逃れようとしている」という側の極論(じみたもの)のぶつかり合いが生じているようです。


 たとえばパンをのどに詰まらせて亡くなった小学生の事件で、痛いニュースなどで【千葉・パン窒息死】 死亡児童の両親 「校長、早食い競争隠してる。本当のこと話して」…校長「早食い競争はなかったはず」と、お父さんの態度に批判的なコメントがずらっと並んでいましたが、これは事件に際して仮に「早食い競争」があったとして、その責任をどう捉えるかという感じ方の相違からくるものと思われます。


 小学生が給食の時間に早食い競争をしてそれが事故につながってしまった場合に、それを止めなかった学校側に(も)管理責任があると考える側にこのお父さんはおられるのでしょう。少なくともお父さんに批判的な人はそう受け取っているはず。直接の係争点は「本当のことを言っているか否か」になっていますが、これはうわべのことであって、学校側の責任というものを問題にしているのではないかと…。
 そしてこのお父さんに批判的な声は、学校でふざけて悪乗りして起きた事故は自業自得である、と考える人の声のように思われます。学校側に明確な過失が無く(無いようにみえて)、責任は亡くなった子本人(ともしかしたら躾けた親)にあると思えるからこそバッシングのような声が浴びせられているのでしょう。


 これが「浅いプールで飛び込まされて脊髄損傷」のようなケースならば、裁判でも学校側の管理責任というものが明確に認められていることも多く、学校側に非があるとする声がほとんどのはずです。
 しかしここではより微妙な、悪ふざけへの注意(義務)といったものが判断のポイントになっているため、ここでは「親が悪い」みたいな声が主流ですがブクマコメントではバッシングに対する批判も少なからずあるという形になっているものと思われます。つまり、誰がどのぐらいの責任を持つべきかについて万人が納得できる明確なケースではないということなのでしょう。
 残念なことですが、これは感情的に言い合っても共通の了解が作られるとも思い難い事例です。もちろんケースによって異なってくると思いますが、学校側の管理責任をどこまで認めるか難しいところもあります。
 それこそ責任が強くあるとすれば、少しの悪ふざけも容認しない、がちがちの管理教育をやらなければいけないと学校側が思ってしまうかもしれません。それは生徒や親にとって常にベストとはいえないはず。責任はあるのか、あるとすればどの程度なのか、そうしたもので御両親と折り合いがつかなければ、結局また裁判に訴えるということになってしまうのかもしれません。それよりも「適当な」方法はあるでしょうか?


 子供を失って親御さんが感情的になっているのを責められない、というのは私も感じます。ですからできれば落ち着いた時に、学校側とじっくり再度話してみるということで片付くならそれがいいようにも。
 ここでお父さんに浴びせられる言葉は酷なもの、言い過ぎのものであるとは思います。でも正直なところ、このケースで学校側、もしくは担任の先生が子供が亡くなったことへの責任の過半をとらせられることも酷な事態だとも感じるのです。可哀想なこととは思いますが…。


 いずれ、自己責任論の是非が問われているように見えるときでも、そのほとんどは自己責任論の全否定や全肯定が問題になっているわけではありません。結局はケースごとの責任の有り様、それをどう感じるかという個々人の感じ方の問題ということなのだと思えますね。