運10実力10

 自己責任だとか外的条件の所為だとか、どちらにせよある事象が10割全部内的理由か外的理由どちらかだけの所為ということはあまりないのではないかと感じます。そんな極論を言っても始まらないのが実生活で、でも極論を言いたい人がたくさんネット上などにいるのは、その「10割のイメージ」を自己責任・自業自得(内的理由)の側と社会的条件など(外的理由)の側で(言論的)綱引きをしているという感覚があるからなのでしょう。
 いずれそれは、個々の目前の事象・ケースに関して「責任の値踏み」を私たちがいつもやっていて、その値踏みの在り方が「10のものをどちらに多く割り当てるか」みたいな単純なイメージを抱いてしまっているからではないかと思えます。
 そしてたぶんそれは単純化し過ぎです。


 少々妙な筋ですがかつて阿佐田哲也さんが書いたものの中で、麻雀は「実力」のゲームなのか「運」のゲームなのかという問題設定がありました。ここではおそらく、麻雀の勝敗を決めるものは「内的理由」なのか「外的理由」なのかというそういうよくある問いかけが問題にされていたのだと思います。
 これに対しての阿佐田さんの答えは、「麻雀は運10、実力10のゲームだ」というものでした。すなわちそれは、読みその他の実力を磨いたとしても*1運が全く無ければ馬鹿ツキの人には負ける(実力10+運0は実力1+運10に及ばない)というようなことを実感として彼が抱いていたことに他なりません。
 それでは麻雀は運に支配されるだけのゲームかというと阿佐田さんにはそう言い切る頭も無く、運は周期的に上下するが実力をつければ運に左右されない部分で「底」を固めることができる。だからトータルで負け率を減らすには実力をつけておくことが大事、という考えだったと記憶しています。
 運が適当に加算されるとして、局面局面ではそれが勝敗を決めるけれども、何度もゲームを繰り返せば「実力8」の人間は「実力2」の人間よりも勝つ確率は当然高くなるはずだ、という勝負勘があったのだと思います。
 この話には意外に学ぶところが大きかったように思います。
 そしてこれは、「自分の所為でなかったら他人の所為」「他人の所為でなかったら自分の所為」というような単純なイメージの枠組みを変えてくれるものではないかとも感じます。このイメージの置き方が変われば、責任といったものの値踏みをより複雑なものと見ることができるようになるのではないでしょうか。


 上の話では「運」を外的理由としてモデル化してあります。生まれとか社会的条件とかいったものも大きく見ればこの「運」として考えることもできるはずです。阿佐田さんはそういう考え方をする人でした。
 ただ「運」というのを個人に帰する考え方もあるでしょうし、社会的条件は政治的努力で改善することができるから「運」の範疇ではないという考え方もあるでしょう。そこらへんはいろいろモデルの置き方があろうかと思います。でも私は、どんどんモデルを複雑に捉える方向でいかねば現実に近づかないだろうとも感じています。
 ですから、単純化して極論で議論しているような「責任論」は現実を捉えきれるものではないように見えて、それだけつまらない議論に思えてしまうこともしばしばなのでした。


 関係ありそうで無いのかもしれないですが、一応インスパイア元は以下のところです。
 運が悪いことの責任を取らなくていいなら人生どんなに楽なことか(novtan別館)
 ここのお話に頷きながら上記のようなことを思ったのです。

*1:ここではいちおうイカサマの技術については考えないことにします。