日本の三種類の処女

 …日本にも処女は三種類ありまして(中略)つまり、全然、男を知らない処女と、過去に男を持つたけれども、現在は処女の生活をして居るものと、それからもう一つは、ある時期だけ処女の生活を保つて居るものと、此三種類であります。


 一体、神に仕へる女といふのは、皆「神の嫁」になります。「神の嫁」といふ形で、神に会うて、神のお告げを聞き出すのであります。だから、神の妻になる資格がなければならない。即、処女でなければならない。人妻であつてはならない。そこで第三の類の処女と言ふものが出来てくる。人妻であつても、或時期だけ処女の生活をする。さういふ処女の生活が、吾々の祖先の頭には、深く這入つて居たのであります。

折口信夫折口信夫全集 第一巻 古代研究(國文学篇)』、中央公論社、1990)

 巫女としてあるときには女性は処女でなければならない。ただしそれは必ずしも実際の未通娘であることを要しない。日本の伝統ではそうだった…という折口説を三年も前に書いていたことを思い出しました。
聖とかかわる女性2(050806の記事)


 またこの時は、飾ったお雛様を早く片付けないと嫁き遅れるとかいうジンクスについても柳田國男を引いて書いてもいました。

 家で神様におそなえ申した供物を、女の子には戴かせるものではないという言い習わしは、今でもまだ弘く地方の隅々に行われているかと思う。その理由を聴いてみると、どこでもこれを食べた娘は縁遠くなるからと、答えるのが普通であった。

 三十年近くもかかってやっと心づいた一つの想像説は、これは神々の祭に奉仕した者が、もとは必ず未婚の女子であり、同時に献供の品々を取得する者が、神を代表したその婦人に限られていたことを意味するのではないか。この二つ約束の、一方はもちろん神聖なる出発点であり、他の一方は言わば自然の結果に過ぎぬのであるが、そういう風に分けて考えることは昔の人にはできなかったので、まず一方の避け得られるものを避けて、それと伴うものを免れようとしたものと察せられる。
柳田國男「妹の力」、巻序より)

聖とかかわる女性1(050805の記事)


 これをまた材料に何か…と思ったのですが、あいにく風邪で臥せっておりまして(今日はお休みをいただきました)取りあえず過去記事から引用の再掲だけ…