どちらも寛容的になれないか?

 ⇒君が代で着席、教職員側が敗訴 福岡高裁判決朝日新聞

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 丸山裁判長は君が代斉唱などを指示した校長の職務命令について、「君が代が教職員の歴史観や
世界観を直ちに否定するものと認められない」として一審と同様、憲法19条(思想良心の自由)、
同20条(信教の自由)に違反しないとの判断を示した。 
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 判決によると、教職員らは89〜99年の入学式などで、校長から「起立して斉唱」と職務命令
を受けたが、「特殊な歴史的背景を持つ君が代は歌えない」と着席したまま歌わなかった。 
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 君が代をめぐっては、伴奏や斉唱、起立の拒否などに伴う処分などについて多くの訴えが起こ
されているが、下級審での判断は分かれている。最高裁は昨年2月、音楽教諭に君が代のピアノ
伴奏を命じた校長の職務命令は合憲との初判断を示している。
(2008年12月16日)

 この判決のことを聞いて思い出したのが次の一節でした。

…ローティが「リベラリズム」をめぐる論議に参入するきっかけになたのが、一九八八年の論文「哲学に対する民主主義の優位」である。この論文で彼は『哲学と自然の鏡』の[認識論 vs.解釈学]図式と同じような論法で、自由主義的な社会理論には二つのタイプがあると指摘している。
一つは、「人権」を非歴史的で絶対的なものと見なすものであり、そしてもう一つは、特定の共同体、文化の中での合意の産物でしかないと見なすものである。前者の代表としてドゥウォーキンを、後者の代表としてデューイやロールズを挙げ、後者を支持する。

 ローティによれば、アメリカ建国の父の一人であるジェファソンが宗教など個人的価値観の問題と、「政治」とを切り離して、同じ価値観を持たなくても民主社会は成立することを強調した。公的領域における「政治」と、何を"真理"と信じるかに関わる個人の(私的な)宗教的信念を分けて考えていたわけである。

 ローティはこの視点から、ロールズの八五年の論文「公正としての正義:形而上学的ではなく政治的な」に注目する。後でまた触れるように、この論文は後期のロールズを前期と分かつ分岐点としてしばしば言及される。
 この論文でのロールズの議論の特徴を簡単に言うと、「公正としての正義」の原理について合意するのに、道徳的な信念を共有する必要はないことを強調している、ということになるだろう。

 引用は仲正昌樹の『集中講義!アメリ現代思想 リベラリズムの冒険』(NHKブックス)からです。

 「公正としての正義」でロールズはこの点についての疑問をクリアにしようとしている。「寛容 toleration」の原理を、哲学それ自体にも適用する、というのである。つまり、正義の原理に合意するのはあくまでも「政治的問題」であって、"ロールズたちリベラルと同じような思考回路"を持っている必要はないというのである。人々の間で、基本的な価値観や世界観、真理に対する信念などが違っており、そのため考え方の筋道が違っていても、結果的に望ましい社会的秩序について大体同じようなイメージを抱いていれば、取りあえず、その重なり合っている部分に限って、合意を成立させておけばいい。ロールズ自身はそれを「重なり合う合意 overlapping consensus」と読んでいる。
緩やかな「重なり合う合意」を達成できさえすればいいのであれば、全ての市民がロールズと同じような考え方をする"リベラル"になる必然性はない。別の言い方をすれば、包括的な道徳教説(comprehensive moral doctrine)としての「リベラリズム」を、「公正としての正義」の道徳哲学的な基礎としていちいち持ち出す必要はないのである。

 歴史観に対して寛容になれない人あたりは、過剰に道徳的なのではないかということを思うのです。