競うのも、教え合うのも、勉強も、面白いからやっていた
その面白さを忘れたように語る人のなんと多いことか…
pollyannaさん@理系兼業主婦日記の「「勉強ができる」という蔑称」の一節、
あなたたちは、なんとかして他人を見くびり、見下すことしか考えていないのですか、と。
勉強ができる子供の多くは、ただ勉強がおもしろいから、楽しめるから、できるようになったのだと思う。
19日NHKで放送した「地域発!どうする日本 変わる義務教育」という生放送の討論番組。松本和也アナウンサーの司会で、金子郁容、本田由紀、茂木健一郎の各氏と、あと牧野剛さんが遠隔画像で討論に参加していた番組でした。
この中の事例の一つで、福島県檜枝岐中学校のライブ授業(近隣の中学生と同時にライブ授業を受けて、そのレスポンスなどをネットでリアルタイムに配信しあうもの)が採り上げられていました。これが「他校(の生徒)と競い、生徒に刺激を与えている」例として紹介されていて、答えを出すレスの時間を競ったりする中で名前を知り合い、だんだん答えの内容に注目するようになって、その競い合いが面白くなっている(モチベーションが高められている)のではないかという内容でした。
(※これに対して本田さんは「競争ではなく刺激。刺激し合うことがスパイスになっている」。茂木さんは「さわやかな競争ならあり。どうせ競争するなら(そしてネットを使うなら)全世界と競えばいい」などと発言)
さてそのすぐ後に、愛知県犬山市の楽田小学校の例が競争よりも学び合いなるフレーズの下で紹介されました。算数の時間などで小グループ学習にして、中の子を他の小学生が教えるという形式の授業です。(そしてそこで教えていた子はモチベーションが高まって家でも学習するようになったとか)
この事例が「競争原理とは一線を画した犬山市の取り組み」などと紹介されて、私はすぐにそれは違うと思ってしまいました。「関係交流ができてお互い嬉しい」などというそこで語られた言葉は、まさにすぐ前の檜枝岐中学校の例と本質は同じじゃないかと感じたのです。
あまりにも陳腐な「正答や点数を競い合う」⇒競争(⇒ダメなもの)と、「勉強を教え合う(というか教える)」⇒共助(⇒良いもの)という型にはまった二項対立で今さら何を語ろうというのでしょうか? あそこにある「面白さ」はほとんど同じものです。
自分と同じかちょっと上ぐらいの成果を出す人との競い合いの喜びも、知らない子に教えてあげられてその子がわかるようになる教え合いの喜びも、単純に「関わりの中で自分の知力を使う喜び」として差はないものだったと私は記憶しています。こんな競争は広い草原に放してやった犬たちが駆けっこを競い合うようなもので、とにかく自分の可能性がどんどん出せるのが嬉しい。同じように教え合いも「友達をちょっと助けてあげられるうれしさ」(もしかしたら自分が役立つうれしさ)に他ならないように思います。どちらも普通に遊びの場面でちょくちょく出てくるような、そんな当たり前の喜びに過ぎないでしょう。
それを「競争」と聞くと「誰かを蹴落とす(陰湿で悲惨な)行為」だと決めつけて、競争に負けた子の気持ちを考えろ的なことしか頭に浮かばないような大人は、はなから子供の頃のことがわからなくなっているか、大人になるまでのどこかでねじれてしまった大人なのでしょう。私はおそらく先生になりたいと思ってなった人の多くも「友達に教えてあげられて自分も嬉しかった」という体験がある人だと感じてなりません。
競争よりも学び合い…ではなく、競争も学び合いも面白いね、モチベーションがあがるねという感じで捉えるのが一番私にはしっくり来ます。
pollyannaさんの記事を読んで、番組を見て思ったことが頭によみがえってきました。また関係あるのかないのか微妙な内容ですが、自分の中ではそういう脈絡があったという感じ。ちょっとだけメモしておいたものがあったので書いてみた次第です。