他人の気持ちを慮る

uumin32008-12-30

 「他人の気持ちを慮る」とかいうとかなり良いことのようで、「他人の気持ちを考える」となるとやや中立的になって(でも結構良いことで)、そして「他人の気持ちを勘ぐる」になるといささか悪いことのようなニュアンスが生まれてきますが、それらの行為自体に大きな違いはありません。いずれも他者の心情を推測するという行為です。
 十分な根拠があったり少なかったり、よくよく考えたり思いつきだったり、いささか質の区分があるように見えて実際には根拠がほとんどない思いつきの「慮り」があったりするとも思えますので、外形的な差違はそれほどのものではないでしょう。
 それならば違いを際だたせるものは何かと言えば、「相手に良かれと好意的によく考える」(慮る)に対して「何か悪いことを考えているんだろうと意地悪に推測する」(勘ぐる)のように、推測する側が他者に対してどういう態度を取っているかというスタンスが問題にされているのだと思います。


 ところがこのスタンスというもの自体ももとより頼りない推測によるもの。端から見て優しいかきついかといったあたりの(そしてどちらかといえば結果論的な)もので、本来の「気持ちの推量の当否」には関わりないところで判定が出されるといった具合ですから、結局は「好意的に相手の気持ちを考えている(ように見える)」か「否定的に相手の気持ちを考えている(ように見える)」かの違いぐらいしかそこには無いものと判断できます。


 テレパスでもなければ厳密に他者が何を考えているのかなんてわからないことです。そしてもしかしたら当人にもわからない(=言語的に決定されたものがない)のかもしれませんから、「他人の気持ちを考える」などということは最初からあて推量でしかないとも言えます。
 しかしながらなぜそういう行為が続けられるのか、曲がりなりにも「わかった」「わからない」の判定が下されるのかと言えば、それは「私」たちがもともと「他者」に作られた部分を持つからです。思考の様態やその内容は独自に自分で作り上げたものではなく、他者から借りてきたものでほとんどができています(もちろんアレンジに独自性というものはあるのですが…)。私の中に他者が最初からいるのでなければ、どうして私が他者のことなど理解できる(しようと思える)でしょう?


 「人の気持ちを慮る・思い遣るのが良い」というところにあるニュアンスとは、ひとえに「他者に好意的に解釈するのが正しい」ということなのだと考えます。これは論理ではなく道徳的な主張で、その互恵性ゆえに社会規範的に扱われてもいるものでしょう。
 ですからこれに従う−従わないの判断は、理屈ではなく倫理的(そして感情的)なものであるということだけは意識しておくべきだと思います。
 私は「配慮せよ」的教育を受けてきたため、そうしない(そうできない)人には感情的にいやなものを見てしまいますが、それとて絶対のものではないはず…と時々自分に言い聞かせています。(もちろんそれではおさまらないこともしばしばで、修行が足らん!と自分で思ってしまうのですが…)