事実とか現実とか真実とか

 客観というものが自分の外に存在するという立場ならば、それを指し示すのに一番適当なのが「事実」という言葉でしょうか。
 事実(fact)は主観(視点・立場)によらず、たまたま見えるとか見えないなどの限定はあるかもしれませんが、たとえ誰にも知られなくても「客観的に」そこにあるとすることができます。


例:「それでも地球は回っている」というのは事実の表明と言えます。他者の主観によらず、客観的にそれがあるのだという確信の表明だからです。


 「現実」という言い方には、何かを見る(何かに直面する)ものの主観的視点が含まれています。「誰それにとっての現実」という使われ方・捉え方が本当は必要なのです。
 現実(reality)は客観だけではありませんので、理想などという主観的な言葉と対比して語られたりしますし、感覚器官に信号などを送って「仮想現実」は作り出すことができます。ある意味それは、客観の存在を前提にしなくても現実が認識されている状態と言えるでしょう。「仮想事実」という語は存在できません。


例:「専業主婦には働く女性の現実が見えていない」などというのは、立場の違いによって見える世界が違うということを言い表す言葉でしょう。各々の「主観的な捉え方の違い」以上のものではない気もしますが…


 真実は、事実と現実のどちらとも重なる用法があり、またそれぞれと違うという主張もできる言葉です。
 真実と事実は違うという時は、真実に「客観性」以上の価値判断、人々が肯定せざるを得ないもの、真理とでもいうべき意味付けが密かになされているのではないでしょうか。
 真実と現実が違うという時は、真実が主観を排した冷厳な客観として捉えられているときだと思われます。


 真実(truth)を現実の対義として使う場合には、それは事実と重なってきます。また真実を事実の対義として使う場合には、それは価値判断を含むという意味で現実に近い用法であるとも言え、さらに現実を超えて万人に通用する(宗教的な意味に近い)真理を前提にする場合すらあるのです。


例1:「真偽判断をしなければならない」という用法での真実は、単純に客観的な真(事実)と重なるでしょう。


例2:「平和を求めるならば、非暴力による抵抗でなければならないという真実に気づく」などという言い方では、何か真理のようなものが前提にされていると思います。


 以前書いたことがあったものですが、再確認の意味で…