単純化

 たとえば人間関係など冷静に振り返って捉え直そうとしても、なかなかうまくいかないのが普通だろうと思っています。そうした関係の機微といったものは単純な構図に納めることが本来困難なのです。そしてあえてそれに類することをしたとしても、必ずそこには「強引な抽象化」やら「微妙な歪曲」やらの「ずれ」が出てきてしまうもの。まあどちらかというと複雑さに耐えきれなくなって、確信犯的に極端な単純化をしてそれで心の整理をしてしまう…という例がほとんどかもしれませんが。
 こうした単純化を時に人は「枝葉を切り取って本質を見るものだ」とも言います。でも本当にそれが「本質」かどうかは多くの場合疑問です。特に人間関係などではその時々の相互の接触の仕方、コミュニケーションの在り方こそが(枝葉ではなくむしろ)本質とも言うべきものであって、それを「友人の衣をかぶった依存関係」だの「親を利用するだけの寄生関係」だの「男は身体を求め女は利益を求めている関係」だのと適当に集約して固定的なものとして語ってもそれが本当に重要な「本質」などとはまるで言えない場合が多いのではないでしょうか?


 極端な話、「男女関係」とか「友人関係」とか言ってもそこにまつわる具体的な枝葉こそが内実を決定していくものなのですから、実はあまりに千差万別すぎてこれはほとんど何も表していないと同様かもしれないのです。
 「あなたは○○にだまされている」ぐらいのことであっても、傍から見て単純化できる以上の関係性がそこにあるのは確実でしょう。それを切り捨ててでも断定しなければならないかについては、人はもっと慎重であるべきではないかと感じるのもしばしばです。
 要するに人間に関わる多くのことでは、抽象化が不可逆の「過度の単純化」になってしまっていることを意識する必要があるだろうということです。


 分析的手法が有効なのはあくまで還元する要素の一つ一つに確証があって、一度切り分けたものを再び総合したときに(かなりの)再現性がある場合のみです。強引に分析して(あるいは当てはめて)大事なものをいろいろ捨象してしまったとき、そこに残るのは何でしょうか?
 人間や社会を見るときに、しばしばそういう無理筋の読みが出てきてしまっているんじゃないかなと思えて、そしてそう思うとなかなか断定的に物事は語れないなあと自縄自縛になってきている今日この頃です。