石清水八幡宮

uumin32009-02-21

 最近話題を集めた記事に『徒然草』の第五十二段をあげて次のようなことが語られていました。

 大学時代の恩師が、こんな話をしていました。

 まずそもそも、
「この時代の石清水ってのは、言ってみれば観光地だ。みんな遊びに行くところだ。
 そこへ
『みんな行ってるのに自分はこの歳まで詣でたことがない』
 って“心憂く”覚えたりするのはすでに何か勘違いしてるわけだ。
 まじめというか世間知らずというかな」
「で、“徒歩にて詣でけり”な。
 普通はみんな船で行くんだよ。
 それで船の中で飲んで騒いでな。
 そうすりゃ石清水八幡宮がどんなところかも教えてもらえたろうに、こいつは一人でてくてく歩いて行ったんだな」
 

 まあ、仁和寺の法師のくそまじめっぷりが笑いどころなわけですが。


 ……「そんなの知ってたよ。常識だろ?」って人がどのくらいいますかね?


 もはや我々は、古典文学を「読む」ことはできても「感じる」ことはできなくなっているのだと思います。
 生きている時代背景が違うから。


 そんな話をすると、恩師には「バカ」呼ばわりされると思うんですけどね。
日本語は滅ぼすべき。(なるべく計画的に)−小学校笑いぐさ日記

 記事のお話の主題については甲論乙駁ですが、印象論のやり取りみたいなのに何か乗ろうとは思えないのでパス。それより上に引いたところが妙に気になりました。この「恩師」さんの語られたことは確かなのでしょうか?
 気になったポイントは二つです。一つは「この時代の石清水ってのは、言ってみれば観光地だ。みんな遊びに行くところだ。」というところ。遊山という言葉が仏語(禅語)であることは知られていますが、例祭や特別祭、あるいは祈願のための参詣や参籠以外のニュアンスで庶民が物見遊山に出るというのは、近世以降ののことだったのではないかと考えておりました。二つ目は「普通はみんな船で行くんだよ。それで船の中で飲んで騒いでな。」というところ、京都近辺の交通に水運が重要であったということは聞き及んでおりましたが、この船で飲んで騒いで云々という風景は落語の『三十石船』あたりに出てくるようなもので、それもまた近世を遡って中世にそういう習俗があって、かつ京都近郊の水運事情に確認できるというのは聞いたことがなかったのです。
 もし確かならば心に留めて置くのに必要なことと感じましたので、調べてみたいと思い、昨日の夕方からあれこれあたってみたのでした。 この類の事柄は「なかった」ことを証明することはできませんので、何かそれを明記する(あるいは暗示する)史料が出てくれば(少なくとも)「解釈としてあり」だとできると考えます。 『徒然草』成立と考えられている後醍醐天皇元徳二年(1330年)の末から翌元弘元年(1331年)の頃に、上記状況を示す何かはないかと、手持ちの(乏しい)資料とネットを頼りにあたってみたのですが…。


 「仏教伝来このかた、著名な寺院の法会が、かならずや歌舞奏楽をともなうものであった…そしてその音楽や舞踏が、ときとして極楽浄土の幻想に人びとをさそうものであった…」(守屋*1)というように、庶民の参拝や信仰に音曲や演劇性が関わっていたということは言われていることです。あくまでそれは周年的に行われる例祭などでのことではありますが、これを娯楽込みの参詣と取ることは可能だと思います(特に石清水などは神仏混淆の色合いが強く、寺社が併設してありましたので…)。
 石清水八幡宮での大きな例祭は二つ。まず、賀茂祭葵祭)春日祭とともに三大勅祭とされる「石清水放生会」。これは旧の八月十五日に行われるもので、八六三年(貞観五)に始まったとされます。もう一つは旧三月第二の午の日に行われる「石清水臨時祭」。もともと平将門藤原純友の乱平定の報賽のため始められたのが九七一年(天禄二)から名称は臨時祭のままで恒例となったもの。戦乱のため一四六七年(応仁元)に中絶し、一八一三年(文化十)再興されたと言いますが、もちろん徒然草の頃には行われていたものです。
 他に『石清水八幡宮宮寺并極楽寺恒例仏神事惣次第』(石清水八幡宮文書)には修正会(修正月会)などの儀礼についても記述があります。
 人々がどのようにそれを祝ったのかについては、志水円満寺の唯心上人という方が、「八幡宮寺の一年中の仏神事をきわめて文学的に活写・解説・賛嘆した」とされる『年中讃記』が詳しいそうで、たとえばその「安居の行事に関する記述」では

 七月十五日は安居の日で、安居の巡役は種々の供物を捧げ、特に宝前に供える造花の細工や御殿の風流に工夫をこらし、庭には宝樹を立てたという。宝樹は浄土に生える木だが、使われるのは六本の松である。十五日以前、巡役の頭人は「数輩の同類を卒して」、山路から松を引き、村里を経て、苔むす山上への曲がりくねった山道を、力を合わせて曳き上げてゆく。その横で、「鼓を叩く声は息まず、往く間隙無し、扇を恕タぐる手は頻りに舞う」のである。かくして山上の宝前の庭に立てられた青木には、「千万人」もの人が集まる十五日の夜、石清水の村民がまるで猿のように軽やかに登って枝の上の鳥を演じ、貴賤老少は宝樹の周りを巡り、松の枝に数多の白布を懸ける。満月に照らされて輝く白布は微風に揺れ、極楽浄土の美しい珠網を想わせるのだ…
(生井真理子「石清水八幡宮の木々と文学」で『讃記』を引いて書かれている記述)

 というように記されているそうです。あるいはこの『讃記』などを読めば、石清水八幡宮での行事の時の賑わいは窺い知ることができるかもしれません。しかしながらそういう行事を離れた「娯楽としての参詣」について、石清水八幡宮に関係して何ものかを見つけることは今のところ出来ておりません。


 次に「八幡宮に船で」ということに関して、これはほとんど記録が探せませんでした。たとえば藤原定家の『明月記』。彼が39歳の時、後鳥羽上皇の熊野御幸に供奉した一二〇一年(建仁元年)十月の記録で、十月の五日に鳥羽を早朝に出発して石清水八幡宮に詣で、そこから船に乗ってその日のうちに天王寺まで行って泊まったという記述はあります(→後鳥羽院熊野御幸記に抄録)。これは当時の京からの熊野詣の順路の一つ、「船に乗って淀川を下り、現在の大阪市天満橋の辺りで上陸。海岸筋の熊野街道を熊野の玄関口、口熊野といわれた田辺まで南下」するルートを通っているのですが、それは石清水八幡宮の対岸あたりの山崎津で船に乗って淀川を下るもので、ここまで都から船で来るというものではありません。定家の記録でも鳥羽からの6〜7kmは陸路で来たとしか読めません。


 もちろん古来の京都周辺で水運が重要なものであったとは言われるところですが、「桂川水運が盛んになったのは戦国時代以降」で、特に角倉了以(1554-1614)が桂川保津川)や高瀬川などを開削するまで京の都から淀川へのアクセスは基本的に陸路であったとするのがどうやら定説のようです。

 戦国時代以降より桂川水運が盛んとなり、嵯峨周辺に豪商が成長したが、その中で嵐山の豪商角倉了以徳川幕府と結びつき、保津川桂川)ほか各地の河川の開削を行った。このためか角倉家は大いに発展し、東南アジアにまで進出するに至る。鎖国以後も桂川水運の管理を任され、現在の南丹市世木より下流の、桂川の重要な港には角倉役所が置かれた。桂川の水運は嵐山や梅津を荷揚場とし、天神川を水路として丹波以北からの品物を京都中に運んだ。
Wikipedia右京区の項)

 『延喜式』などから判明する水運の状況でも、中世期までは巨椋池の中州の淀、その手前の山崎が京都の外港となり、ここで陸揚げされて都まで陸路を行くのが基本的な物流の道であったようで、それこそ都の中までの水路は秀吉の時代を待たなければならなかったようなのでした(→皇太子殿下記念講演「京都と地方を結ぶ水の道−古代・中世の琵琶湖・淀川水運を中心として−」など。上の地図はこのサイトのものを引きました)。
 仁和寺から石清水でしたら、船の路があったとすれば当然桂川を下る水路になろうと思いますが、こちらに室町時代以前に通船があったという記録はまだ目にできていません。どこを探したものか途方に暮れる感じです。


 結果としては、冒頭の記述を肯定するものも否定するものも見つからなかったということになります。ただし「当時の常識」とまでされることでしたら、もう少しどこかに引っかかってきても良さそうなものです。いったい「恩師」の先生がどのような史料のどのような記述を元にそれを断定されていたのかがわかれば、推測としての適否が判断できると思うのですが。もしご存じの方がいらっしゃったらご教示ください。


 まあ目論見は無駄になりましたが、何時間か久しぶりにいろいろ資料を繰ってあれこれ調べるのは楽しかったので良しとしましょう。特に巨椋池がこれほど大きなものであったというのは意外といいますか想像を遙かに超えるものでした。まだまだ知らないことが多いなあと、これは一番の収穫だったと思います。

巨椋池今昔
 巨椋池京都盆地が巨大な山城湖だった大昔の名残りで、永い年月の地殻変動で北が高く隆起したため、南に水気が集まってできたといわれている。池の周囲は蓮の花などが咲いて景色がよく、舟を浮かべて水遊びのできる人気の行楽地だった。また、池で採れる豊富な魚介類は近隣の村をうるおした。
しかし池は大雨の度に洪水を起こして一帯を水浸しにすることもあり、秀吉は伏見城を洪水から護るための長い堤を造り、宇治川の流れを変えて池と分離しただけでなく、池そのものを幾つかの池に分散させた。しかしその後も洪水は起こり続け、その度に改修工事が行なわれた。そうして明治40年に池と川が完全に分離すると、池の水位が急激に減りはじめ、周囲16キロメートル、水面積約794ヘクタールもあった池は水深1メートルを切るようになった。
そこで改めて干拓工事がすすめられ、広大な池は跡形もなくなり、今ではのどかな田園風景が広がっている。
宇治川〜古代水運の要〜 近畿日本鉄道「沿線紀行」より)

 あと『徒然草』についてですが、これが木版印刷の歴史の初期、印刷新時代ともいえる十五、六世紀の人によって「再発見」され、古典の列に加えられた…などという事情は、少し考えてみる価値があることかもしれません。そこらへんについては、松田修「重層的時空論―中世から近世へ」に詳しいです。

*1:守屋毅「仏教と浄土と芸能」、『大系:仏教と日本人7 芸能と鎮魂』所収。