背骨問題
増田 ⇒ 大学院の教授がクソだと言われる一つの理由
これを読んで、deztecさんの
⇒ 大野左紀子さんをコピペレポート問題から解放する(かもしれない)授業案
を思い浮かべました。
たぶん問題点は似ていると思います。「自分で考える学生」「背骨がしっかりした学生」を大学生に望む教員(側の視線)と、それは抛っておいて作られるものではなくて、教員側が何とかできるものじゃないの?というやり取り、と思えたのです。
年代や環境が違うと見えるものが違ってくるという話なのかもしれませんが。
「卵が先か鶏が先か」ではないですけれども、自信(背骨)がどこかでできなければ自信をつけることもできない(すなわち自信がなければいつまでもそのまま)という構造は確かにあると考えます。自信をつけるプロセスに入るためには、先に自信を持っていなければならない…とでもいうような逆説的な状況があるんです。
本当に人それぞれどこかでそのブレイク・スルーがあったりするんですが、一度そこを抜けると自信が無かった頃のことは記憶に無くなってしまう、そんな傾向もありがちかも。
あと、単純に「内側から発信」―「外側に従属」というモデルを取って良いときと悪いときがあるとも考えています。その「内側」はどうしても「外によって作られた」ものなのですから。
適当なところまで「外」から吸収し、適当なところで「外」を切って「内」を信じなさいとか言われても、その適当なところはどこなんですか?とかいろいろ疑問は提起されるものです。ほどよく「外」を信じたり「内」を信じたり、そういう適宜な選択というものが最初からできる人はまずいないと思います。それが出来た(と思えている)人は、最初の増田さんの記事に書かれているみたいに「自分はどうだったのか」「今どうしているのか」を含めて後進に教えるべきでしょうね。
おそらく(憶えているかどうかは別にして)どこかで自分もそうやって教わったはずなんですよ。