自分がやられて嫌なこと

 「自分がして欲しいことを相手にする」というのは時々いらないおせっかいにもなりかねないもので、好みや願望が人それぞれであることを考えると、これは「自分がやられて嫌なことは相手にしない」という若干消極的な姿勢にしたほうが(より)普遍性はありそうだと考えたりしています。
 もちろんそれは単純に好悪の問題として考えても良い事柄に限ります。つまり相手は嫌がるかもしれないけれど必要なこと(職務上のことなど)については、好悪だけでする・しないを決めることもできません。たとえば子供は宿題をいやがるだろうけれども、ある程度の宿題は出したほうが良いと判断される…とかいった具合です。


 ただこの「自分がやられて嫌なことは相手にしない」ということ、人によってはかなり難しいことのようで、頭に入っていないのか違ったことが考えられているのか、そこらへんを配慮してないなあと思われることをしばしば見かけます。強制したいわけではないのですが、これはより多くの方々に採用されれば結構住み易い世の中になりそうないい金言だと思われます。


 大学なんかでのパワハラアカハラ問題、結構記事でも見かけます。全体の学生・教員の絶対数に比べれば少ないものとも言えますが、実は問題化していない分もかなりあると思われますので(自分でも見聞きしたことは少なからず…)十分問題視できるだけの量があると判断します。
 それらの報道の中では「大学院生に対し威圧的な言動をした教員」がアカデミック・ハラスメントで問われるという図式があるようで、それぞれのケースでどこに「威圧的かそうでないか」の線引きがあるのか、記事だけではよくわからない時もあって、悩ましい問題だなあとしばしば感じます。
 それなりに威圧的とも思える先生などいくらでもいました。人間性(というより人あたりですか)と業績は案外関係なかったりしますから。


 何か思い出すのは院生の時の同じ研究科の某先生。直接私が関わることは少なかったのですが、担当されている院生の某氏から、いかにあの先生が身勝手で権柄づくでダブスタで適当か…というような愚痴をさんざん聞かされました(金払いは良かったそうです <それは結構いい取柄)。全部鵜呑みにすることもしませんでしたが、自分はあの先生に付かなくて良かったと思ってしまったのは確かです。
 その方なんですが、実は別の先生からふと伺ったところによると「昔さんざん苦労した」ということで、特に(別の大学でですが)助手をやっていたときに上の方からかなり酷いいじめのような扱いを受け、よくあれで耐えられたものだと傍で思われた云々ということでした。
 でもそれじゃあ、自分がやられて嫌だったことを繰り返してしまっているみたいだ…と少し感じました。経験が実にならない人っているものですね。話に聞く体育会系の集団で、代々きつい(無意味な)しごきが繰り返されるとかいう話を思い出したり、イスラエルのことが頭に浮かんだり…